※1終わった事なの詐欺師を相手にするほどドイツや日本の企業は暇では無いし納得出来ないなら証拠が必要だろうよ 第3SS装甲師団 トーテンコプフ ナチが右マンジ(ハーケンクロイツ)を使用したせいで、ヒンズー教徒や仏教徒は大迷惑だわ。まぁ日本では左卍が多いけどさ。 スーツなんかは紳士服の⚪⚪で充分品質いいし 第30SS武装擲弾兵師団 (ロシア第2) やはり、良くも悪くも日本人には和服だよ, 一体何が❗真実なんだろうね、ヒューゴボスは生産に関わっただけで実は、このデザイン者自体は今だに謎なんだよね。他にも有名デザイナーの名前も、上がっていたけどアリバイが、あるみたいだしね、本当に謎の多い組織だよナチスってのはさ。, ナチが悪だと日本も悪になる、日本の企業も悪になる、そんなの嫌だ。 近所の寺の左卍は何とも思わなかったのにナチスのアレは何故か嫌だった。 前にインド系アメリカ人たちがヒンズー教寺院を建立しようとしたらクレーム殺到でエライ目にあって建設が頓挫した事があったが…これもナチのせいや! 第26SS武装擲弾兵師団 (ハンガリー第2)

日本がデザイナーで服作るとしたら誰がいるんだろう今?結婚ドレスのおばちゃんとか森泉のおばあちゃんだっけ?そんなトコしか思いつかんわw, ※3 第33SS武装擲弾兵師団 シャルルマーニュ(フランス第1) 第29SS武装擲弾兵師団 (イタリア第1) 第33SS武装騎兵師団 (ハンガリー第3) 第17SS装甲擲弾兵師団 ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン 第8SS騎兵師団 フロリアン・ガイエル やっぱりデザイナーは凄いよ, 骨格が良くないと服に負けて、服に着られているように見える 第32SS義勇擲弾兵師団 1月30日

ナチス・ドイツ親衛隊(SS)の将軍。親衛隊の12ある本部の1つ親衛隊全国指導者個人幕僚部(Persönlicher Stab Reichsführer SS)の長官。親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの最大の副官として知られる。 Copyright © 2014 黄金の国ジパング All Rights Reserved. 第34SS義勇擲弾兵師団 ラントシュトーム・ネーダーラント(オランダ第2) オーストリア出身の親衛隊(SS)中佐。 ナチスドイツの巨大な秘密警察機構、《国家保安本部(RSHA)》のゲシュタポB4課(ユダヤ人問題担当)に所属し、ナチ占領区の1100万人にも及ぶユダヤ人を絶滅収容所に送り込む仕事をしていた。 アイヒマンは凡庸な男であったが、ユダヤ人問題のスペシャリストになろうと研鑽を重ね、いつしかその道のプロとみなされるようになった。上司のラインハルト・ハイドリヒに見出 … 第2SS装甲師団 ダス・ライヒ 元は総統アドルフ・ヒトラーを護衛する党内組織(親衛隊)として1925年に創設された。 1929年にハインリヒ・ヒムラーが親衛隊全国指導者に就任し、彼の下で党内警察組織として急速に勢力を拡大。 ナチスが政権を獲得した1933年以降には政府の警察組織との一体化が進められた。 親衛隊(しんえいたい、独:Schutzstaffel  発音[ヘルプ/ファイル]、略号:SS)は、ドイツの政党、国家社会主義ドイツ労働者党の組織である。, 元は総統アドルフ・ヒトラーを護衛する党内組織(親衛隊)として1925年に創設された。1929年にハインリヒ・ヒムラーが親衛隊全国指導者に就任し、彼の下で党内警察組織として急速に勢力を拡大。ナチスが政権を獲得した1933年以降には政府の警察組織との一体化が進められた。保安警察(ゲシュタポと刑事警察)、秩序警察、親衛隊情報部、強制収容所など第三帝国の主要な治安組織・諜報組織はほぼ全て親衛隊の傘下に置かれていた。1934年には正規軍である国防軍から軍事組織の保有を許可され、親衛隊特務部隊(後の武装親衛隊)を創設した。以降特務部隊以外の親衛隊員は一般親衛隊と呼ばれるようになった。, 第二次世界大戦中、武装親衛隊がヨーロッパ各地で戦ったが、警察業務の親衛隊はドイツ及びドイツ占領下のヨーロッパ諸国において治安維持、反体制分子摘発、ユダヤ人狩りなどにあたった。戦時中に親衛隊は絶滅収容所やアインザッツグルッペンを組織してユダヤ人の絶滅を図ろうとした(ホロコースト)。そのため親衛隊は悪名高い組織となり、戦後のニュルンベルク裁判では全ての親衛隊組織は「犯罪組織(英:Criminal Organization)」であるとする認定を受けた。21世紀に入って尚、隊員達は本人の死亡が確認されるまで犯罪者として追跡され、居所が確認されれば逮捕、裁判に掛けられている。, 隊のモットーは「Meine Ehre heißt Treue(My honor is called fidelity:忠誠こそ我が名誉、我が名誉は忠誠を宣する事)」。, 1920年の結党から1933年の政権獲得まで闘争時代は、反対政党に対する武闘組織として突撃隊 (SA) があった[1]。, 党首アドルフ・ヒトラー個人のボディーガード集団としては1923年3月に「司令部護衛隊(Stabswache)」が創設されたのが最初である[2][3][4]。この組織は1923年5月に「アドルフ・ヒトラー特攻隊 (Stoßtrupp Adolf Hitler)」に改組された[4][5][注釈 1]。衝撃隊の隊員数は200名ほどであり[5][6]、隊長は突撃隊員ユリウス・シュレック退役大尉(ドイツ語版)とナチ党財務担当ヨーゼフ・ベルヒトルト退役少尉(ドイツ語版)の二人で務めていた[2][3]。, ミュンヘン一揆の際、「アドルフ・ヒトラー衝撃隊」は、警官隊の銃撃で転倒したヒトラーを文字通り盾となってかばい、5名の隊員が代わりに警官の銃撃を受けて死亡した[7]。ウルリヒ・グラーフもヒトラー衝撃隊の隊員としてヒトラーをかばい、重傷を負った人物である[4]。この時彼らの血で染まった党旗が残されたが、ヒトラーは彼らの功績を忘れず、のちにニュルンベルク党大会で突撃隊や親衛隊の部隊にこの「血染めの党旗(ドイツ語版)」に触れさせて忠誠を誓わせる儀式を行っている[7]。, ミュンヘン一揆の失敗でナチ党も突撃隊もヒトラー衝撃隊も強制的に解散させられた[7][8]。, 1924年12月20日にランツベルク刑務所を出獄したヒトラーは、バイエルン州首相ハインリヒ・ヘルトと会談して二度と一揆を起こさない事を約束するなどして、1925年2月25日にナチ党に対する非常事態宣言の解除にこぎつけた。これによりナチ党を再建することが可能となり、2月27日にヒトラーはナチ党の再結党宣言を行った[9]。, ナチ党組織の再建の中でヒトラーは、1925年4月中旬にユリウス・シュレックに自らの警護部隊を再建するよう命じた。2週間後の5月にこの組織は「親衛隊 (Schutzstaffel)」の名前を与えられた[10][11][12][注釈 2]。発足当時の親衛隊隊員数はわずかに8名であった[11]。, また親衛隊の行動指針にはアルコール中毒者、おしゃべり、非行歴がある者は酌量されないと定められていた。ドイツ人であればほとんど誰でも入隊できた突撃隊と異なり、親衛隊は設立当初から一定の入隊条件が存在していたことになる[12][13][14]。親衛隊は設立後すぐにドレスデンにおいて共産党員50名によるナチ党集会襲撃の企みを未然に防いで功績をあげた[7][14]。, シュレックは親衛隊の拡張に努め、1925年9月には全ての地方党グループに親衛隊を設置するよう命令を下した[14]。1925年クリスマスの親衛隊の報告によれば隊員数は1000人になっていたという[15]。1926年春には「親衛隊司令部(SS-Oberleitung)」が創設された[16]。, 1926年4月にベルヒトルトが亡命先のオーストリアから帰国してシュレックから親衛隊隊長の職を受け継いだ[17][18]。1926年7月4日のヴァイマルでの第二回党大会で「血染めの党旗」が突撃隊から親衛隊の管理に移されることとなった[15][19][20]。, 1926年11月1日にフランツ・プフェファー・フォン・ザロモンが突撃隊最高指導者に任じられたのを機に親衛隊は突撃隊の傘下に組み入れられ、同時にベルヒトルトは「親衛隊全国指導者」(Reichsführer-SS)の肩書を得た[18][19][21]。, 結局ベルヒトルトはフォン・ザロモンとの軋轢を強めて辞職した[22]。1927年3月にベルヒトルトの副官エアハルト・ハイデンが代わって親衛隊全国指導者に就任した[22][23][24]。突撃隊最高指導者フォン・ザロモンは各地区の親衛隊員数を突撃隊員数の10%以下にすることを命じ、これによりハイデンは隊員数の削減を迫られた。そのため1928年までに親衛隊の隊員数は280人にまで落ち込んだ[22][25]。ハイデンもフォン・ザロモンとの軋轢を強めて1929年1月6日に辞職することとなった[19][20]。, 1929年1月6日にハイデンの副官であったハインリヒ・ヒムラーが第4代親衛隊全国指導者に任じられた[24][26][27][28][29][30][31]。この時の親衛隊は280名ほどの弱小組織であったが、ヒムラーの下で親衛隊はその規模を急速に拡大させ、1929年末には1000人[20][32]、1930年末には2700人[20][32]、1931年には1万5000人[33]、1932年4月には2万5000人[34]、1932年末には5万人以上になっていた[35][36]。, これは1929年10月24日のニューヨーク・ウォール街の大暴落により発生した世界恐慌が関係していた。失業者がなだれを打ってナチ党やナチ党組織へ参加を希望し、親衛隊にも入隊希望者が殺到した[37][要文献特定詳細情報]。もちろん突撃隊は親衛隊より多くこの人材源を吸収した。これによりドイツ各地で徒党を組んで無法行為を働く突撃隊員が増加した。ついには党首ヒトラーの統制すらも受け付けなくなるほどに荒れ、当時選挙による合法的政権獲得を目指していたヒトラーにとっては頭痛の種となっていた。ヒトラーはこの突撃隊の無法分子に対する警察組織の必要性を痛感し、その任務を果たす組織としてヒムラー率いる親衛隊に目を付けた[20][38]。加えて親衛隊の拡大に強く反対していた突撃隊最高指導者フォン・ザロモンがヒトラーとの対立から1930年8月12日に辞職することになり、さらに同月終わりには東部ベルリン突撃隊指導者ヴァルター・シュテンネスが党指導部に対して反乱を起こした[39]。, こうした情勢からヒトラーは1930年11月7日付けの命令で正式に親衛隊を党内警察組織と規定し、親衛隊は突撃隊の指揮に従う必要はないと定めた(ただし1934年の「長いナイフの夜」までは形式的に突撃隊の下部組織であった)[40][41]。, ヴァルター・ダレの『血と大地』のイデオロギーに強く影響されていたヒムラーは、1929年4月に親衛隊の組織規定の草案をヒトラーやフォン・ザロモンに提出し、人種的な問題を親衛隊入隊の条件に据えるようになった[42]。数で圧倒的に勝る突撃隊を抑え込むためには親衛隊を「エリート集団」にせねばならなかった。そしてヒムラーやダレのいう「エリート」とは金髪で青い目をしている長身の北方人種のことであった[43][44]。, 農業を学び、農薬会社に勤めていたこともあるヒムラーは、こうした基準について植物と絡めてこのように語っている。「品種改良をやる栽培家と同じだ。立派な品種も雑草と交じると質が落ちる。それを元に戻して繁殖させるわけだが、我々はまず植物選別の原則に立ち、ついで我々が使えないと思う者、つまり雑草を除去するのだ。私は身長5フィート8インチ(約173センチ)の条件で始めた。特定の身長以上であれば、私の望む血統を有しているはずだからである」[42][45]。, 人材の供給源は恐慌の失業者や突撃隊からの引き抜きなどで豊富であった。ただし採用されるのはヒムラーの「品種基準」を満たした者だけであった[37]。ヒムラーは1931年12月31日の命令で親衛隊員の婚姻条例を定め、人種・遺伝の観点から隊員の婚姻に問題がないかどうか調査するための機関として親衛隊人種及び移住本部(RuSHA)を創設し、ダレにその長官に就任してもらっている[46]。ユダヤ人からドイツを守る世界観闘争を担うのは親衛隊であるとの自負心を強めていった[16]。, 1930年7月にクルト・ダリューゲが親衛隊に参加した。ダリューゲは親衛隊に入る前からベルリン親衛隊をヒムラーから独立して指揮することをヒトラーから認められていた人物で、親衛隊移籍後にもベルリン親衛隊をヒムラーから事実上独立して指揮していた[47][要文献特定詳細情報]。ダリューゲは1931年3月の突撃隊員ヴァルター・シュテンネスの再反乱の鎮圧に活躍した。この一件は親衛隊の地位を大いに高めた。この際にヒトラーはダリューゲに対して「SS隊員よ、忠誠は汝の名誉(SS-Mann, deine Ehre heißt Treue)」という賛辞を贈っている。この時の言葉が後に「忠誠こそ我が名誉」 という親衛隊のモットーの原型となった[34]。, なおシュテンネスの反乱にはプロイセン州内相カール・ゼーフェリンクの政治警察が援助していたといわれ、ヒトラーは党内の情報組織の必要性を痛感し、ヒムラーに親衛隊情報部の創設を指示した[48]。1931年6月には海軍を追放され失業中だったラインハルト・ハイドリヒが親衛隊に参加した。ヒムラーはこのハイドリヒに親衛隊の諜報部「IC課」を任せた。1932年7月にこの組織はSDに改組された。SDは後に全ヨーロッパに監視の目を張り巡らせる巨大諜報機関に成長するが、設立当初はハイドリヒの妻リナが秘書を務め、彼の部下は3人だけという状態であった[49]。しかしハイドリヒは精力的に働き、彼の索引カードには党内外の政敵の様々な情報が記載されていった[50]。ハイドリヒの組織は急速に拡大され、ナチ党の各支部にハイドリヒの地方機関が設けられるようになっていった。突撃隊諜報部など他の党の諜報組織を出し抜き、政権掌握後の1934年6月9日に副総統ルドルフ・ヘスの声明によりSDは党唯一の諜報組織と定められた[51][52]。, 1932年1月25日にはミュンヘンの党本部「褐色館」の警備の全権がヒムラーに任せられた[53]。1932年7月7日にはこれまでの突撃隊と同型の制服を改めて親衛隊独自の制服が制定された。これが親衛隊の制服として有名な「黒服」であった。突撃隊からの独自路線を強く示すためであった[34]。ヒムラーは親衛隊の模範としてイエズス会を意識しており、その急速な勢力拡大と黒い制服から親衛隊は「黒いイエズス会」とも呼ばれた[54]。, 1933年1月30日にヒトラーはパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領からドイツ国首相に任命されてドイツの政権を掌握した。, 日和見主義者達が保身から続々と入党していた[注釈 3] ため、親衛隊も爆発的に隊員数を増やした。ナチ党が政権を掌握した頃には5万2000人だったのが[29]、1933年末には20万9000人の隊員数を有するようになっていた。もっとも大多数は名誉隊員や週末のみ動員の隊員が多く、行事がある時に制服に着替えて参加するパートタイムの非常勤隊員であった。彼らは軍人として訓練されていないので、国防軍からはパレード専門の「アスファルト兵士」と馬鹿にされていた[55]。またヒムラーは親衛隊名誉指導者制を新設し、政財界の要人達を親衛隊に集めた。名誉指導者は親衛隊の任務は全く課されない代わりに親衛隊の組織や隊員に対して何の命令権もない存在だった[56]。, 隊員数が急増した親衛隊は入隊基準をより厳しくするようになった。ヒトラーも「門戸をゆるくしてはならない。女共が惚れ惚れするような存在でなくてはならないのだ」と発言しているとおり、非常に厳しい入隊審査が行なわれた。1750年まで遡って本人の血統にユダヤ民族やスラブ民族の血が混入していないか調査を受け[57]、北方人種の顔立ち(彫りが深く金髪碧眼、細く高い鼻、後部が突き出た頭蓋骨)と最低身長173cmの頑強な体格、先祖の病歴などを基準に選考された。そのため党幹部の中には親衛隊を閲兵する際シークレットブーツなどを履いた者もいたという。また、結婚も親衛隊人種及び移住本部(RuSHA)の許可無くすることは許されず、婚約者の血統、父方、母方に精神疾患歴がないか調査された。ヒムラーは数年以内に国家の主要ポストは金髪碧眼が占め、120年以内には全ドイツ国民が北方人種的な容姿になっていなければならないと考えていた[58]。, 旧来の隊員の中でもこれらの基準に照らして怪しい者はリストラの際に除隊対象となったため、隊員数の増加に歯止めがかかった[35]。1933年末に20万9000人だった隊員数は、1939年の大戦開始時に25万人になっているにとどまる。リストラは徹底して行われ、1933年以前に親衛隊隊員だった者の90%は大戦までには除隊していた[59]。, 1933年1月30日にヒトラーが首相に就任したのち、党幹部が次々と政府や州政府の要職に就任したが、ヒムラーとハイドリヒには何のポストも与えられず、彼らはミュンヘンにとどまっていた。3月9日にハインリヒ・ヘルトが首相を務めるバイエルン州政府がフランツ・フォン・エップ率いる党部隊に制圧されるとようやくヒムラーがミュンヘン警察長官、ハイドリヒがミュンヘン警察政治局長に任命された[60][61]。さらに4月にはヒムラーがバイエルン州警察長官、ハイドリヒがバイエルン州政治警察部長となった[61]。, 一方ベルリン親衛隊の指導者であるクルト・ダリューゲは、プロイセン州内相に就任したゲーリングと接近してプロイセン州警察特別委員に任じられ、さらにプロイセン州警察中将の階級を与えられていた。2月22日にはゲーリングは突撃隊員2万5000人と親衛隊員1万5000人をプロイセン州の補助警察として採用したが、その指揮はダリューゲに任せられていた[62][63]。ダリューゲはますます名目上の上司ヒムラーを軽視するようになった。1933年春にはハイドリヒがヒムラーからダリューゲ鎮撫のためにベルリンに派遣されたが、ゲシュタポ(プロイセン州秘密警察。当時はゲーリングが長官、ルドルフ・ディールスが局長をしていた)に脅迫されてミュンヘンに追い返されている[64]。ヒムラーとハイドリヒはひとまずプロイセン州やベルリンの「ゲーリング王国」に手を出すのを諦め、バイエルン州で反体制派取り締まりに精を出して実績を上げた。彼らは1933年3月にミュンヘン郊外のダッハウに最初の強制収容所ダッハウ強制収容所を創設している[65]。, ドイツ国内相ヴィルヘルム・フリックは独立傾向のプロイセン州内相ゲーリングに対抗するための実力を求め、親衛隊に接近してきた[66]。1933年から1934年初めにかけて強制的同一化と併せて各州の政治警察がヒムラーに任せられていった[66]。しかしドイツの国土の大半を占めるプロイセン州の警察は相変わらず、ゲーリングやディールス、ダリューゲらによって支配され続けた。ヒムラーは、自分とゲーリング、ダリューゲなどの間をふらふらしていたプロイセン州やベルリンの親衛隊員達が自分に乗り換えるよう粘り強く揺さぶりをかけ、「ゲーリング王国」の足腰を弱体化させていった。さらにゲシュタポの指揮権を手に入れるため、ディールスについてヒンデンブルク大統領に讒言して一時ディールスをゲシュタポ局長から失脚させている[67]。, 突撃隊の指導者レームとも争うところが多かったゲーリングは親衛隊とこれ以上争うことは得策ではないと判断し、1934年4月20日、ディールスが務めるゲシュタポ局長の上位職として「ゲシュタポ総監兼長官代理(Inspekteur und stellvertretender Chef des Geheimen Staatspolizeiamtes)」を新設し、ヒムラーをこれに任じた。これをもって実質的なゲシュタポの指揮権をヒムラーに引き渡すこととなった。ヒムラーは、ただちにディールスをゲシュタポ局長から解任し、1934年4月22日に後任としてハイドリヒをゲシュタポ局長に任じ、彼にゲシュタポの実質的な運営をゆだねた[68][69]。ヒムラーとハイドリヒはバイエルン州ミュンヘンからベルリンのプリンツ・アルブレヒト街のゲシュタポ本部へ移動することとなった。以降、ドイツの政治警察はほぼヒムラーとハイドリヒが掌握するところとなった。, 一方突撃隊は政権獲得後に総隊員数400万人(うち武装兵士50万人)を抱え、「第二の国防軍」などと呼ばれるまでになっていたが、権力からは遠ざけられ、しかも深刻な隊員の失業問題を抱えていた。突撃隊員の中には「第二革命」を唱えて貴族階級が軍部を占める国防軍を解体して突撃隊を代わりの正規軍とすべきと主張する者も増え、軍と党の軋轢を強めていた。ヒトラーはいよいよ突撃隊の大掃除を考えるようになった。1934年6月30日、長いナイフの夜においてエルンスト・レーム以下の突撃隊幹部や反党分子が数百名殺害された。この事件で主導的地位を果たしたのはプロイセン州内相ゲーリング、そしてヒムラーやハイドリヒなど親衛隊の幹部であった。この実績が認められ、1934年7月20日に親衛隊は突撃隊から分離、独立を果たした[70]。また、1933年の政権獲得後ドイツ各地に建てられた敵性分子を収容する強制収容所(KZ)の監督権もすべて親衛隊に移された。ヒムラーはダッハウ強制収容所所長テオドール・アイケを強制収容所総監に任じた。アイケは1933年末にダッハウ強制収容所の監視部隊を親衛隊髑髏部隊として組織しており、長いナイフの夜事件の際にも粛清の実行部隊として活躍し、事件後には五個大隊に再編されて各強制収容所に警備部隊として配置されるようになった[71]。, 事件後、フリック内相はヒムラーやハイドリヒを警戒して、引き続きヒムラーから独立的な姿勢を見せていたダリューゲと接近し、彼を内務省警察局長に任命した。さらにヒムラーを名目上の事務職にして、ダリューゲをヒムラーの常任代理にしてドイツ警察を担わせたいと考えた[72]。しかしヒトラーのヒムラー達への信任はすでに盤石なものとなっており、フリックとダリューゲでは抗いきれず、1936年6月17日にはフリックはヒムラーを全ドイツ警察長官に任じることとなった。以降フリックの内相としての地位は形式的なものとなっていった。, ヒムラーは、警察組織の統合を目指す一方、一般警察業務と政治警察業務は明確に分離させた。一般警察業務は秩序警察(オルポ)の下へまとめ、一方政治警察は保安警察(ジポ)の下へまとめた。秩序警察はクルト・ダリューゲにゆだね、一方保安警察はハイドリヒに指揮させた。保安警察には次の重要な国家警察機関が含まれていた。秘密警察(ゲシュタポ)と刑事警察(クリポ)である。同じくハイドリヒの指揮下にあったSDとゲシュタポは職務区分が明確でなかったため、反目することがあった。そのため、1937年7月1日にハイドリヒはCSSD命令を出して、両者の職務領域を区分している。SDは党内問題、人種問題、文化問題、教育問題、外国問題、行政問題、フリーメイソンなどを専管するとされ、一方ゲシュタポはマルクス主義、移民、国事犯を専管とすると定めた。教会、世界観問題、ユダヤ人、過激派、黒色戦線(ナチス左派のオットー・シュトラッサーの分派組織)、経済問題、報道問題については共同管轄となった。SDを情報分析機関とし、ゲシュタポを執行機関とするのがこの区分命令の狙いであったと指摘されている[69]。, さらに1937年11月13日にヒムラーは「親衛隊及び警察高級指導者(Höherer SS- und Polizeiführer、略称HSSPF)」の職を新設した。彼らはヒムラーの親衛隊全国指導者と全ドイツ警察長官の地位を代行する者としてドイツ国内や占領地の各地に配置されていた[73]。, 1939年9月、ハイドリヒは政治警察活動の重複を避けるために党機関であるSDと国家機関である保安警察を一つの傘の下に束ねた。それが親衛隊の国家保安本部である。SDは第III局(SD国内諜報)とVI局(SD国外諜報)に、秘密警察(ゲシュタポ)は第IV局に、刑事警察は第V局に配置された。III局はオットー・オーレンドルフ親衛隊中将、IV局は「ゲシュタポ・ミュラー」と呼ばれたハインリヒ・ミュラー親衛隊中将、V局はアルトゥール・ネーベ親衛隊中将、VI局は30歳で親衛隊少将兼警察少将となったヴァルター・シェレンベルクが指揮した。第二次世界大戦後期には国防軍の諜報部であったはずのアプヴェーアが国家保安本部VI局に組み込まれ、ドイツの対外諜報活動はすべて国家保安本部が管轄するところとなった。, 戦時中に国家保安本部はホロコーストの執行機関であった。1942年1月にはハイドリヒがヴァンゼー会議を開催し、ラインハルト作戦を策定してベウジェツ強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所などの絶滅収容所を建設し、ヨーロッパのユダヤ人の絶滅を目指した。さらに東部戦線ではアインザッツグルッペンを組織して、ゲリラ掃討の名目でユダヤ人や一般市民の虐殺を行った。, 1942年6月にエンスラポイド作戦でハイドリヒが暗殺されるとヒムラーが国家保安本部長官を兼務するようになったが(この間はI局局長ブルーノ・シュトレッケンバッハが長官代理として実務を取り仕切る)、1943年1月からはエルンスト・カルテンブルンナーが後任に任じられて国家保安本部長官となった。, 1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件の際にも親衛隊と国家保安本部は最大の鎮圧者として活躍した。戦況が悪化していくにつれて親衛隊や国家保安本部の秘密警察権力は肥大化し、ゲシュタポの暴走を止めるにはヒトラーさえも苦労を要するようになったという[74][75]。, ヒムラーは党の政権獲得前から親衛隊の後援会員(FM)の拡大を目指していた。後援会員は親衛隊に資金を提供するが加入はしないシンパのメンバーである。親衛隊の各連隊はそれぞれの後援会を所持しており、隊員には少なくとも一人の後援会員を確保することが命じられていた。1932年の時点では後援会員数は1万3000人にとどまっているが、政権獲得後に一気に後援会員数が増大し、1933年には16万7000人まで伸ばし、さらに1934年には34万2000人に達した[76]。1932年夏にヒトラーの経済顧問ヴィルヘルム・ケプラー(Wilhelm Keppler)が創設した「経済問題研究委員会」は、1934年半ばに親衛隊に取り込まれて「親衛隊全国指導者友の会(Freundeskreis Reichsführer SS)」となったが、これは親衛隊の後援会の中でも頂点に位置するものであった。ここにはIGファルベンの幹部ハインリヒ・ビューテフィシュ(Heinrich Bütefisch)、大財閥フリックのフリードリヒ・フリック(Friedrich Flick)、大手食品会社ドクター・エトカーのリヒャルト・カゼロウスキー(Richard Kaselowsky)、ドレスナー銀行のエミール・ハインリヒ・マイヤー(Emil Heinrich Meyer)、ドイツ銀行のカール・リッター・フォン・ハルト(Karl Ritter von Halt)、ジーメンス・シュケルトのルドルフ・ビンゲル (Rudolf Bingel)、J.H.シュタイン銀行(J.