海外サッカー, こんにちは、ついにチャンピオンズリーグ準決勝が決まり、レアルマドリード対アトレティコ・マドリードのマドリードダービーが早くも実現ですね。, また勝利するためにはスーパースターしか在籍することが許されない状況になっています。, 今回は、お金をつぎ込み成功した(結果を出した)メンバーについてクローズアップさせてもらいました。. 1980年代はカンテラ出身の選手たちが主役を務めた。エミリオ・ブトラゲーニョに代表される「キンタ・デル・ブイトレ」の世代はチームをレアル・マドリード史で1、2を争うものに変貌させる。この成功に満ちた時代、ウーゴ・サンチェスのゴールも重要な役割を果たした。クラブ初となるUEFAカップ優勝を2度遂げ、ベルナベウでは欧州カップ戦での歴史的な逆転劇など、魔法のような夜を過ごすことができた。, 1983年に2部リーグ優勝を果たしたアマンシオ監督率いるカスティージャには5人の将来有望な若手選手がいた。パルデサ、サンチス、ミチェル、マルティン・バスケス、ブトラゲーニョだ。ディ・ステファノが彼ら、カンテラの真珠を徐々にファーストチームに引き上げると、1985年から見事に開花。リーガ5連覇や1チームのシーズン最多得点記録を塗り替える107得点などを達成した。

退団の噂も出ていましたが、2019年8月現在は残留中。 172 cm. fcバルセロナの歴代&現在所属選手名鑑(ポジション別)と歴代監督一覧; レアルマドリードの歴代&現在所属選手名鑑(ポジション別)と歴代監督一覧; 自民党の当選者一覧と経歴 (2017年第48回衆議院議員総選挙) 人気記事. また、1つ歴史が刻まれた。#チャンピオンズリーグ決勝 pic.twitter.com/uDyJXfTXp1, とても悔しい そしてチームを支えたスーパースターたちの共演は多くのファンを魅了し続けてい... こんにちは、正式にFCバルセロナ加入が決定したフランス代表FWアントワーヌ・グリーズマン選手。

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今やワールドカップを超える大会と言われて... こんにちは、数々のスター選手が在籍し、勝利を勝ち取ってきました王者・バイエルンミュンヘン。 レアル・マドリード(西: Real Madrid Club de Fútbol)は、マドリード州マドリードをホームタウンとするスペインのサッカークラブ。 プリメーラ・ディビシオンに所属する。, 日本ではレアルと呼ばれるが、スペインでレアル(La Real)は、レアル・ソシエダを指す。, 1902年に創立。現在のホームスタジアムはエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ。現在はリーガ・エスパニョーラのプリメーラ・ディビシオンに所属し、同リーグにおいて34回の最多優勝記録を持つほか、FCバルセロナとアスレティック・クルブと共にリーガ・エスパニョーラの創立以来、一度もプリメーラ・ディビシオンから降格したことがないクラブでもある。さらに2020年の時点で6クラブのみであるビッグイヤーの永久保持を認められた史上初のクラブである。, 獲得した国際タイトルは、UEFAチャンピオンズカップおよびUEFAチャンピオンズリーグにおいて歴代最多となる計13回の欧州制覇、さらにラ・ペケーニャ・コパ・デル・ムンド、インターコンチネンタルカップおよびFIFAクラブワールドカップにおいても歴代最多となる計9回の世界一を誇る。, 2016年には、世界有数の経済誌『フォーブス』によるスポーツチームの資産価値の格付けにおいて36億5000万ドルと算出されており、2013年から2015年まで世界一の資産価値のクラブとなっていた[1]。, スペインサッカー連盟は1909年に創設されたものであり、同クラブ創設当初のスペインにはサッカーを統括する団体が存在しなかった。また、当時は同クラブが唯一のサッカー団体であったため、スペインを代表してFIFAの創設メンバーに名を連ねた。, 首都マドリードに本拠地を置いているレアル・マドリードは、サッカー界だけでなく、スポーツ界においても最も影響力が強いクラブであることから、国内外の強豪クラブからライバル視されやすく、歴史的な背景からカタルーニャやバスクなどの地域のクラブから強い対抗心を抱かれている[2]。, 特に、同リーグ所属のFCバルセロナとは強烈なライバル関係にある。FCバルセロナとの対戦はエル・クラシコ (El Clásico) と呼ばれ、100年以上に渡り因縁の対決を続けており、世界各地のサッカーファンが注目を集める一戦となる。長きに渡り対戦成績を上回っていたレアル・マドリードだが、2019年3月2日のエル・クラシコでFCバルセロナが勝利したことで、およそ87年ぶりに通算対戦成績の勝ち越しを許した。, 同じマドリードを本拠地とするアトレティコ・マドリードも同様に強烈なライバル関係にある。アトレティコ・マドリードとの対戦はマドリードダービー (El Derbi Madrileño) と呼ばれる[注 1]。, また、サッカーのクラブチームのほか、バスケットボールのクラブチームおよび女子サッカーチームも持つ総合スポーツクラブである。, スペインバスケットボールリーグ1部リーガACBのレアル・マドリード・バロンセストがそれであり、ユーロリーグにおいて歴代最多となる計9回の優勝、さらにインターコンチネンタルカップ においても歴代最多となる計5回の優勝を誇る。, 女子サッカーに関しては、ライバルのFCバルセロナやアトレティコ・マドリードが女子サッカーチームを保有する一方、長らく参入しなかったが、女子サッカーの人気の高まりを受けて2019年6月に同じくマドリードを拠点とするプリメーラ・ディビシオン・フェメニーナ所属の女子サッカークラブ「クラブ・デポルティーボ・タコン」を吸収合併、2020年7月より名称がレアル・マドリード・フェメニーノになり、正式に傘下となった[3][4]。, Bチームであるレアル・マドリード・カスティージャを始めとしたラ・ファブリカ(La Fábrica, 工場の意)と呼ばれるユースチームも運営しており、これまで国内外で活躍する多くの選手を輩出している。1979-80シーズン、カスティージャCFはコパ・デル・レイ決勝に進出してレアル・マドリードのトップチームと決勝戦を戦い、下部組織出身者をチームの中心に据えた1980年代はリーガ・エスパニョーラ5連覇を果たした。, しかし、レアル・マドリードは他のクラブから有名選手を獲得することが多く[5]、2000年にフロレンティーノ・ペレスが会長に就任して以降はその傾向が特に顕著となったため、トップチームに定着する下部組織出身者は非常に少ない。元カスティージャCF出身の選手であり、下部組織の総責任者を務めていたミチェルは、2008年にクラブのカンテラ軽視を理由に辞職している[6]。, 以降はカンテラから直接のトップチーム昇格を目指すのではなく、レンタル移籍または買い戻しオプションを付けたうえで他クラブに放出したうえで、そこでの武者修行を経て印象的な活躍を見せた選手を復帰させるという方針に転換し[7]、この方法でレアル・マドリードに復帰して主力に定着した選手もいる。, デロイト・フットボール・マネー・リーグによれば世界一収入のあるフットボールクラブであり、2012-13シーズンの経営収入は5億1890万ユーロである[9]。その内訳はスタジアム収入が1億1900万ユーロ、テレビ収入が1億8830万ユーロ、マーケティング収入が2億1160万ユーロとなっている。クラブブランドや潤沢な資金力を活かして、これまで多くの大物選手の獲得に成功している。, 特筆すべきものとして、レアル・マドリードはいち早くプレシーズンのワールドツアーを採用し、PRも兼ねて大きな資金を得た。また、多くの場合選手に対して肖像権の半分をクラブ側が持つという契約を提示するため[10][11]、ユニフォームなどのグッズ売り上げ以外にも所属選手による収入がある。リーガ・エスパニョーラの放映権収入に関しては、現在レアル・マドリードとFCバルセロナの2クラブで約半分を独占する形になっており、経済格差やそれを背景としたリーグの2強化も相まってこの分配システムには不満の声が多く上がっている[12]。, イギリスメディアが2012年に公表した調査によると、レアル・マドリードの平均年俸は約779万ドルであり、FCバルセロナに次いで、世界で2番目に平均年俸が高いクラブであることが判明した。これはアメリカのスポーツチームで最も平均年俸が高いロサンゼルス・レイカーズやニューヨーク・ヤンキースよりも高い給与水準である[13]。, エミレーツ航空やアブダビ国立銀行とスポンサー契約を行ったレアル・マドリードは、イスラム圏の文化を尊重してファンの拡大を狙い、エンブレムにある十字架を除く微調整を施した[14]。, 2015年3月28日に中国の電動バイクメーカーの緑源(リューヤン)とスポンサー契約を締結したと発表した[15]。中国企業とスポンサー契約を結ぶのは初めて。, 当クラブの日本語公式サイトでは、「レアル・マドリードC.F.」および「レアル・マドリード」を用いている[16]。しかし、Real Madrid Club de Fútbol を一般的なスペイン語では [real maˈðɾið kluβ de ˈfutβol]「レアル・マドリー(ドゥ)・クルブ・デ・フッ(トゥ)ボル」と発音することや、欧州サッカー連盟 (UEFA) の日本語公式ウェブサイトで「レアル・マドリーCF」および「レアル・マドリー」を使用している[17]ため、「レアル・マドリー」を用いるマスメディアもある[注 2]。その他、英語風に「レアル・マドリッド」と表記するマスメディアもあり[18]、日本語表記は統一されていない。なお、当クラブが所在するマドリード首都圏では [real maˈðɾiθ]「レアル・マドリース」と発音する(→マドリード#名称参照)。Real は「王の」「王立の」という意味で、英語のroyalにあたる。, 愛称および略称は、チームカラーの白をとってエル・ブランコ(El Blanco)やメレンゲ(Merengue)。その他にも、年代ごとにそれぞれ特殊な愛称も存在する。アルフレッド・ディ・ステファノらスタープレイヤーを擁してUEFAチャンピオンズカップ5連覇を成し遂げた1950年代後半は一般的にエポカ・ドラダ(Epoca Dorada, 黄金時代)と表現され[19]、8度のリーガ・エスパニョーラ優勝を成し遂げた1960年代はビートルズの楽曲、シー・ラヴズ・ユーの歌詞より[20]イエイエ・マドリード(Yé-yé Madrid)[注 3]、リーグ5連覇を成し遂げた1980年代後半から1990年代初頭のチームは、エミリオ・ブトラゲーニョの愛称である「エル・ブイトレ(El Buitre)」からキンタ・デル・ブイトレ(Quinta del Buitre, ハゲワシ部隊)と呼ばれた。2000年代前半から中盤の第一次ペレス会長時代は、在籍している選手の豪華さからギャラクティコス(Los Galácticos)とも呼ばれていた。, 日本のメディアでは『レアル』、「エル・ブランコ」を意訳した『白い巨人』、「ロス・ガラクティコス」を訳した『銀河系軍団』という呼び名も用いられる。なお、スペインでは定冠詞をつけた『El Madrid』(エル・マドリー)が多く使われており、アトレティコ・マドリードは「アトレティコ」と略している。スペインでは『レアル』と言うと、レアル・ソシエダ(La Real)を指す。, 1895年、オックスフォード大学やケンブリッジ大学の卒業生がマドリードにフットボール・スカイ(Football Sky)というクラブを設立。1900年に分裂し、ニュー・フットボール・クラブ(New Foot-Ball de Madrid)とフリアン・パラシオス会長のエスパニョール・デ・マドリード(Club Español de Madrid)という2クラブが新たに生まれた。そして、1902年にフアン・パドロスが会長となり、レアル・マドリードの前身のクラブであるマドリード・フットボール・クラブ(Madrid Foot-Ball Club)が誕生した。, 1902年はコパ・デ・ラ・コロナシオンに出場。1905年には初のタイトルであるコパ・デル・レイ優勝を達成し、1908年まで同大会を4連覇した。1910年にはアーサー・ジョンソンがクラブ史上初の監督に就任。1911年にはソテロ・アラングレンが、1912年3月3日にはサンティアゴ・ベルナベウがトップチームの試合に初出場[22]し、1912年にはクラブ史上初のホームスタジアムであるオドネル・スタジアムが建設された[23]。1914年にはレネ・ペティトが、1916年にはエドゥアルド・テウスがトップチームの試合に初出場した。1917年にはコパ・デル・レイ優勝を達成。, 1920年6月29日、アルフォンソ13世に「レアル」の称号を拝領したことでクラブ名がレアル・マドリードとなり、クラブのエンブレムにもブルボン家を象徴する王冠が加えられた[24]。「レアル」の名を授けられたことによりクラブ会員が急増したため、オドネル・スタジアムよりも大きなスタジアムを建設[25]し、1924年にエスタディオ・チャマルティンが完成。1928年にはマヌエル・アナトルを獲得。1929年からリーガ・エスパニョーラが開幕し、最初のシーズンとなった1929シーズンは2位に終わった。, 1930年にはリカルド・サモラを獲得。1931年にアルフォンソ13世が国外に亡命したことによって、その後の約10年間に渡りエンブレムの王冠と共にクラブ名から「レアル」の称号を外され、クラブ名がマドリードFCとなる。同年にはマヌエル・オリバレス、ジャシント・キンコセス、シリアコ・エラスティ、ルイス・レゲイロを獲得し、1931-32シーズンはリーグ戦にて無敗を記録して初のリーガ・エスパニョーラ優勝を達成[26]。1932年にはジョゼップ・サミティエールを獲得し、1932-33シーズンはリーガ・エスパニョーラ2連覇を果たした。1933-34シーズンと1935-36シーズンにはコパ・デル・レイ優勝を達成するが、1936年にスペイン内戦が勃発し、1939年までリーガ・エスパニョーラは中断を余儀なくされた。1939年にはフアン・アントニオ・イピーニャ、サビノ・バリナガを獲得。, 1943年にサンティアゴ・ベルナベウが会長に就任。1944年にはスペイン内戦の影響で廃墟と化した[27]エスタディオ・チャマルティンに代わるスタジアムであるヌエボ・エスタディオ・チャマルティンを起工した[注 4]。1945-46シーズンにはコパ・デル・レイ優勝を果たした。1946年にはルイス・モロウニーを獲得し、1946-47シーズンはコパ・デル・レイ2連覇を達成。1947-48シーズンにはコパ・エバ・ドゥアルテ優勝を果たす。1948年にはミゲル・ムニョス、パイーニョを、1949年にはフアン・アロンソを獲得。, 1951年にはADプルス・ウルトラからホセ・マリア・サラガを昇格させた。1952年にはラ・ペケーニャ・コパ・デル・ムンドにて優勝を達成。1953年にはアルフレッド・ディ・ステファノ、フランシスコ・ヘントを獲得し、ADプルス・ウルトラからエンリケ・マテオスを昇格させた。特にディ・ステファノの獲得はアトレティコ・マドリード、FCバルセロナ、アスレティック・ビルバオの3強だった当時のリーガ・エスパニョーラの勢力図を塗り替えた[22]。1953-54シーズンはリーガ・エスパニョーラ優勝を達成。1954年にはエクトル・リアル、マルキートスを獲得。1954-55シーズンはシーズン途中にホセ・ビジャロンガが監督に就任し、当時のリーグ史上最多となる勝ち点46を記録[28]してのリーガ・エスパニョーラ2連覇を果たす。1955年1月4日、ヌエボ・エスタディオ・チャマルティンの名称をエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウに改称した。, 1955-56シーズンはラテン・カップ優勝、さらに同シーズンから始まったUEFAチャンピオンズカップにて優勝を果たす。1956年にはレイモン・コパを獲得し、フアン・サンティステバンを下部組織から昇格させた。1956-57シーズンはラ・ペケーニャ・コパ・デル・ムンド優勝、リーガ・エスパニョーラ優勝、UEFAチャンピオンズカップ2連覇を果たした。1957年にはルイス・カルニグリアが監督に就任したほか、ホセ・サンタマリア、ロヘリオ・ドミンゲスを獲得し、1957-58シーズンはラテン・カップ優勝、リーガ・エスパニョーラ2連覇、UEFAチャンピオンズカップ3連覇を達成した。1958年にはフェレンツ・プスカシュを獲得し、1958-59シーズンはUEFAチャンピオンズカップ4連覇を果たす。1959年にはジジを獲得し、1959-60シーズンはシーズン途中にミゲル・ムニョスが監督に就任したほか、ルイス・デル・ソルを獲得。同シーズンはリーガ・エスパニョーラにおけるホームゲームで全勝を記録し、FCバルセロナと勝ち点46で並ぶも得失点差により優勝を逃すが、UEFAチャンピオンズカップでは5連覇を達成した。この5年間のUEFAチャンピオンズカップでは、合計17試合のホームゲームにおいて全て勝利を収めており[29]、これらの実績を残した当時のチームはエポカ・ドラダと表現された。, 1960年にはホセ・ビセンテ・トラインを獲得。1960-61シーズンは当時のクラブ史上最多連勝記録である公式戦15連勝を記録[30]したほか、当時のリーグ史上最多となる勝ち点52を記録してのリーガ・エスパニョーラ優勝を果たし、さらに同シーズンから始まったインターコンチネンタルカップにて優勝を達成。, 1961年にはアントニオ・ベタンコルト、ビセンテ・ミエラを獲得。1961-62シーズンはリーガ・エスパニョーラ2連覇とコパ・デル・レイ優勝を果たし、クラブ史上初の国内タイトル2冠を達成した。1962年にはイグナシオ・ソコ、アマンシオ・アマロ、ルシアン・ミュラー、エヴァリスト・デ・マセドを獲得。1962-63シーズンはホームゲームで全勝を記録してのリーガ・エスパニョーラ3連覇を達成し、1963-64シーズンはリーガ・エスパニョーラ4連覇を達成した。1964年にはピッリ、マヌエル・サンチス・マルティネスを獲得し、ADプルス・ウルトラからラモン・グロッソを昇格させ、1964-65シーズンはリーガ・エスパニョーラ5連覇を達成した。, 1965-66シーズンはUEFAチャンピオンズカップ優勝を果たした。1966-67シーズンはリーガ・エスパニョーラ優勝を達成。1967年にはミゲル・アンヘルを獲得し、1967-68シーズンはリーガ・エスパニョーラ2連覇を達成。1968-69シーズンはリーガ・エスパニョーラ3連覇を達成した。1969年にはグレゴリオ・ベニトらを獲得し、1969-70シーズンはコパ・デル・レイ優勝を果たした。1960年代は8回のリーガ・エスパニョーラ優勝などを記録し、これらの実績を残した当時のチームはイエイエ・マドリードと称された。, 1970年にはADプルス・ウルトラからビセンテ・デル・ボスケ、マラニョンを昇格させた。1971年にはサンティリャーナ、マリアノ・ガルシア・レモンを獲得し、1971-72シーズンはリーガ・エスパニョーラ優勝を果たす。しかし、1972-73シーズンは無冠に終わる。1973年にはギュンター・ネッツァーを獲得し、カスティージャCFからホセ・アントニオ・カマーチョを昇格させた。1973-74シーズンはシーズン途中で14季にわたって監督を務めたムニョスを解任してルイス・モロウニーが監督に就任し、コパ・デル・レイ優勝を達成した。, 1974-75シーズンからはミリャン・ミリャニッチが監督に就任し、1974年にはパウル・ブライトナーを獲得。1974-75シーズンはリーガ・エスパニョーラ優勝とコパ・デル・レイ2連覇の国内タイトル2冠を達成し、1975-76シーズンはリーガ・エスパニョーラ2連覇を達成。1976年にはフアニートを獲得するも、1976-77シーズンは無冠に終わり、ミリャニッチは解任された。1977年にはウリ・シュティーリケを獲得し、1977-78シーズンはリーガ・エスパニョーラ優勝を達成した。なお、1978年6月2日にベルナベウは死去した。, 1978年、ルイス・デ・カルロスが会長に就任。1978-79シーズンはリーガ・エスパニョーラ2連覇を達成。1979-80シーズンからはヴヤディン・ボシュコヴが監督に就任し、1979年夏の移籍市場ではローリー・カニンガム、ミゲル・アンヘル・ポルトゥガルらを獲得。同シーズンは当時のリーグ史上最多となる勝ち点53を記録してのリーガ・エスパニョーラ3連覇とカスティージャCFとの決勝戦を制してのコパ・デル・レイ優勝の国内タイトル2冠を達成した。, 1980-81シーズンはカスティージャCFからリカルド・ガジェゴ、アグスティン・ロドリゲスらを昇格させた。1981-82シーズンはチェンド、ホセ・マヌエル・オチョトレーナ、ミチェルがトップチームの試合に初出場し、コパ・デル・レイ優勝を達成。しかし、1982-83シーズンは無冠に終わり、1983-84シーズンはマヌエル・サンチス・オンティジュエロ、マルティン・バスケス、ミゲル・パルデサ、エミリオ・ブトラゲーニョがトップチームの試合に初出場するも無冠に終わる。1984年夏の移籍市場ではホルヘ・バルダーノを獲得し、1984-85シーズンはコパ・デ・ラ・リーガとUEFAカップにて優勝を達成した。, 1985年5月24日、ラモン・メンドーサが会長に就任。同年夏の移籍市場ではウーゴ・サンチェス、アントニオ・マセーダ、ラファエル・ゴルディージョを獲得し、1985-86シーズンは当時のリーグ史上最多となる勝ち点56を記録してのリーガ・エスパニョーラ優勝とUEFAカップ2連覇を達成。, 1986-87シーズンからはレオ・ベーンハッカーが監督に就任し、1986年夏の移籍市場ではフランシスコ・ブーヨを獲得。同シーズンは当時のリーグ史上最多となる勝ち点66を記録してのリーガ・エスパニョーラ2連覇を達成。1987年夏の移籍市場ではミゲル・テンディーリョらを獲得し、1987-88シーズンはリーガ・エスパニョーラ3連覇を達成。1988年夏の移籍市場ではベルント・シュスターらを獲得し、1988-89シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャ優勝を達成したほか、当時の国内での公式戦における最多無敗記録となる34試合無敗を記録[31]してのリーガ・エスパニョーラ4連覇、コパ・デル・レイ優勝の国内タイトル2冠を達成した。, 1989-90シーズンからはジョン・トシャックが監督に就任し、1989年夏の移籍市場ではフェルナンド・イエロ、オスカル・ルジェリらを獲得。同シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャ2連覇[注 5]と当時のリーグ史上最多となる107得点を記録[32]してのリーガ・エスパニョーラ5連覇を達成した。1980年代後半から1990年代初頭にかけてエミリオ・ブトラゲーニョらカスティージャCF出身の選手たちがチームの中心となり、これらの実績を残した当時のチームはキンタ・デル・ブイトレと称された。, 1990年夏の移籍市場ではゲオルゲ・ハジ、ルイス・ミジャ、フランシスコ・ビリャローヤらを獲得し、1990-91シーズンはカスティージャCFからアルフォンソ・ペレスを昇格させ、スーペルコパ・デ・エスパーニャ3連覇を達成。, 1991年夏の移籍市場ではルイス・エンリケ、ミケル・ラサ・ゴイコエチェア、ロベルト・プロシネチキらを獲得するも、1991-92シーズンは無冠に終わる。1992年夏の移籍市場ではイバン・サモラーノらを獲得し、1992-93シーズンはコパ・デル・レイ優勝を達成。1993年夏の移籍市場ではラファエル・アルコルタらを獲得し、1993-94シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャにて優勝を果たす。, 1994-95シーズンからはホルヘ・バルダーノが監督に就任し、1994年夏の移籍市場ではフェルナンド・レドンド、ミカエル・ラウドルップ、ホセ・エミリオ・アマビスカ、キケ・サンチェス・フローレス、サンティアゴ・カニサレスらを獲得。同シーズンはレアル・マドリードBからラウル・ゴンサレスらを昇格させ、リーガ・エスパニョーラとコパ・イベロアメリカーナにて優勝を果たした。1995年夏の移籍市場ではフレディ・リンコン、フアン・エスナイデル、デヤン・ペトコヴィッチらを獲得した。, しかし、1992年からエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウの改修を行い、この改修費用などでクラブは多額の負債を抱えることとなる。そして、1995-96シーズン途中の1995年11月20日にメンドーサは会長職を辞任した。, 1995年11月26日、ロレンソ・サンスが会長に就任する。1995-96シーズンはレアル・マドリードBからグティ、ビクトール・サンチェスらを昇格させるも無冠に終わる。1996-97シーズンはファビオ・カペッロが監督に就任し、1996年夏の移籍市場ではプレドラグ・ミヤトヴィッチ、ダヴォール・シューケル、クラレンス・セードルフ、ロベルト・カルロス、ボド・イルクナーらを獲得。1997年冬の移籍市場ではクリスティアン・パヌッチらを獲得した。同シーズンは当時のリーグ史上最多となる勝ち点92を記録[33]してのリーガ・エスパニョーラ優勝を果たすも、守備的な戦術が批判されシーズン終了後にカペッロは監督を退任した。, 1997-98シーズンはユップ・ハインケスが監督に就任し、1997年夏の移籍市場ではフェルナンド・モリエンテス、アイトール・カランカらを獲得。1998年冬の移籍市場ではクリスティアン・カランブー、サヴィオらを獲得した。同シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャ優勝を達成したほか、UEFAチャンピオンズリーグ優勝を達成するが、シーズン終了後にハインケスは解任された。, 1998-99シーズンはフース・ヒディンクが監督に就任し、1998年夏の移籍市場ではロベルト・ヤルニ、イバン・カンポ、フェデリコ・マガジャネスらを獲得。同シーズンはトヨタ ヨーロッパ/サウスアメリカ カップにて優勝を果たすが、成績不振によりシーズン途中でヒディンクは解任される。その後はジョン・トシャックが監督に就任するも、同シーズンはリーガ・エスパニョーラで2位、コパ・デル・レイでベスト4、UEFAチャンピオンズリーグでベスト8に終わる。, 1999年夏の移籍市場ではミチェル・サルガド、イバン・エルゲラ、スティーブ・マクマナマン、ニコラ・アネルカらを獲得。1999-2000シーズンはレアル・マドリードBからイケル・カシージャスを昇格させるも、成績不振からシーズン途中でトシャックは解任され、その後はレアル・マドリードBの監督を務めていたビセンテ・デル・ボスケがトップチームの監督に昇格する。同シーズンはリーガ・エスパニョーラでは5位、コパ・デル・レイではベスト8に終わるも、UEFAチャンピオンズリーグでは優勝を果たす。, シーズン終了後に会長選を実施し、サンスはフロレンティーノ・ペレスに敗れたことにより会長職を退任。, 1999-2000シーズン終了後に行われた会長選を経て、フロレンティーノ・ペレスが会長職に就任した。ペレスはスペイン一等地にあった旧練習場敷地であるシウダード・デポルティバの土地を売却することで前会長時代までに膨らんだクラブの多額の負債を完済[注 6]。さらに毎年スター選手を獲得する補強方針を打ち出して[34]移籍市場を賑わせ、ロス・ガラクティコスと称されるチームを構成した。, 2000年夏の移籍市場ではペレスが会長に就任した際に獲得を公約したルイス・フィーゴ[35]を当時の史上最高額の移籍金で獲得[36]したほか、サンティアゴ・ソラーリ、クロード・マケレレ、フラビオ・コンセイソン、ペドロ・ムニティス、セサル・サンチェス・ドミンゲスらを獲得。2000-01シーズンはリーガ・エスパニョーラ優勝を果たす。2000年12月11日、全投票の42%を獲得してFIFA公認の20世紀最高クラブに選出された[37]。, 2001年夏の移籍市場では当時の史上最高額の移籍金でジネディーヌ・ジダンを獲得[38]。2001-02シーズンはレアル・マドリードBからフランシスコ・パボン、ラウール・ブラボらを昇格させ、スーペルコパ・デ・エスパーニャとUEFAチャンピオンズリーグにて優勝を果たした。当時のクラブの補強やチーム構成の方針は、ジダンなどのスター選手とパボンなどのレアル・マドリードB出身の選手の共存を意味する「ジダネス&パボネス」と呼ばれた[39]。, 2002年夏の移籍市場ではロナウド、エステバン・カンビアッソらを獲得。2002-03シーズンはレアル・マドリードBからハビエル・ポルティージョを昇格させ、リーガ・エスパニョーラ、UEFAスーパーカップ、トヨタ ヨーロッパ/サウスアメリカ カップにて優勝を果たすも、シーズン終了後に監督のビセンテ・デル・ボスケは解任された。さらにクラブとの確執があった主将のフェルナンド・イエロやマケレレ、出場機会を失っていたフェルナンド・モリエンテスらも退団し、その後のチームは低迷することとなる。, 2003-04シーズンはカルロス・ケイロスが監督に就任し、2003年夏の移籍市場ではデビッド・ベッカムらを獲得した。同シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャにて優勝するも、リーガ・エスパニョーラは4位、コパ・デル・レイは準優勝、UEFAチャンピオンズリーグではベスト8に終わり、シーズン終了後にケイロスは解任された。, 2004-05シーズンはホセ・アントニオ・カマーチョが監督に就任し、2004年夏の移籍市場ではマイケル・オーウェン、ジョナサン・ウッドゲート、ワルテル・サムエルらを獲得。しかし、シーズン途中でカマーチョは辞任し、アシスタントコーチを務めていたマリアノ・ガルシア・レモンが監督に就任するもシーズン途中で解任され、ヴァンデルレイ・ルシェンブルゴが監督に就任。2005年冬の移籍市場ではトーマス・グラヴェセンらを獲得するも、同シーズンは無冠に終わる。, 2005年夏の移籍市場ではセルヒオ・ラモス、ロビーニョ、ジュリオ・バチスタ、パブロ・ガルシア、カルロス・ディオゴを獲得。2005-06シーズンはシーズン途中でルシェンブルゴを解任し、レアル・マドリード・カスティージャの監督を務めていたフアン・ラモン・ロペス・カロがトップチームの監督に就任。2006年冬の移籍市場ではアントニオ・カッサーノ、シシーニョを獲得するも、同シーズンも無冠に終わった。当時のチームは選手間の軋轢や規律の欠如をはじめとした様々な問題を抱えており[40]、同シーズン途中の2006年2月にUEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦ファーストレグであるアーセナルFC戦とリーガ・エスパニョーラ第25節におけるRCDマヨルカ戦での連敗により2季連続の無冠が濃厚となったため、同年2月27日にペレスは会長職を辞任した[41]。, ペレスの辞任後、次期会長選挙までペレスの右腕と言われるフェルナンド・マルティン・アルバレスが会長職に就任するも、およそ2ヶ月後の4月26日に会長職を辞任した。その後はルイス・ゴメス・モンテハーノが暫定的に会長を務めた[42]。, 2005-06シーズン終了後に行われた会長選を経て、ラモン・カルデロンが会長職に就任。2006-07シーズンはファビオ・カペッロが監督に就任し、2006年夏の移籍市場ではファビオ・カンナヴァーロ、エメルソン、ルート・ファン・ニステルローイ、マアマドゥ・ディアッラ、ホセ・アントニオ・レジェスらを獲得。2007年冬の移籍市場ではマルセロ、フェルナンド・ガゴ、ゴンサロ・イグアインを獲得した。同シーズンはリーガ・エスパニョーラにおいて最終的にFCバルセロナと同勝ち点で並び、直接対決の結果により優勝を果たすも、守備的な戦術が批判されシーズン終了後にカペッロは解任された[43]。, 2007-08シーズンからはベルント・シュスターが監督に就任。2007年夏の移籍市場ではペペ、クリストフ・メッツェルダー、ハビエル・サビオラ、ヴェスレイ・スナイデル、アリエン・ロッベン、ガブリエル・エインセらを獲得。同シーズンはリーガ・エスパニョーラ2連覇を果たした。, 2008年夏の移籍市場ではルベン・デ・ラ・レー、ハビ・ガルシア、ラファエル・ファン・デル・ファールト、エセキエル・ガライを獲得。2009年冬の移籍市場ではクラース・ヤン・フンテラール、ラッサナ・ディアッラらを獲得した。2008-09シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャにて優勝を果たすが、リーガ・エスパニョーラでの低迷から第14節後にシュスターを解任してファンデ・ラモスが監督に就任するも2位に終わった。コパ・デル・レイでは4回戦敗退、UEFAチャンピオンズリーグでは5季連続のベスト16に終わる。, 2008-09シーズン途中の2009年1月16日、クラブ総会におけるカルデロンの不正投票操作疑惑が浮上[44]し、その責任および混乱収拾のためカルデロンは会長職を辞任。その後はビセンテ・ボルダが暫定的に会長を務めた。, 2009年6月14日に会長選が行われる予定だったが、元会長のフロレンティーノ・ペレス以外の候補者が出馬条件を満たせなかったため[45]、同年6月1日付でペレスが会長に返り咲いた[46]。, 2009-10シーズンはマヌエル・ペレグリーニが監督に就任し、同年夏の移籍市場では当時の史上2番目に高額な移籍金でカカを、当時の史上最高額となる移籍金でクリスティアーノ・ロナウドを獲得したほか、カリム・ベンゼマ、シャビ・アロンソ、ラウール・アルビオル、アルバロ・アルベロアらを獲得。しかし、同シーズンはリーガ・エスパニョーラで当時のクラブ史上最多の勝ち点96を記録するも2季連続の2位、コパ・デル・レイでは2季連続のベスト32、UEFAチャンピオンズリーグでは6季連続のベスト16と無冠に終わり、シーズン終了後にペレグリーニは解任された。, 2010-11シーズンからはジョゼ・モウリーニョが監督に就任。2010年夏の移籍市場ではアンヘル・ディ・マリア、ペドロ・レオン、リカルド・カルヴァーリョ、サミ・ケディラ、メスト・エジルらを獲得。2011年冬の移籍市場ではエマニュエル・アデバヨールを獲得した。2010-11シーズンはコパ・デル・レイ優勝を果たした。なお、同シーズンはリーガ・エスパニョーラ、コパ・デル・レイ、UEFAチャンピオンズリーグにて合計5試合のエル・クラシコが行われ、特に2011年4月16日から5月3日までに行われた4試合[注 7]はクアトロ・クラシコ(Cuatro Clásico、4回のクラシコという意味)と呼ばれた。, 2011年夏の移籍市場ではヌリ・シャヒン、ハミト・アルトゥントップ、ホセ・カジェホン、ファビオ・コエントラン、ラファエル・ヴァランらを獲得。2011-12シーズンは当時のクラブ史上最多連勝記録に並ぶ公式戦15連勝を記録[30]したほか、いずれもリーグ史上最多となる121得点[47]と勝ち点100[48]を記録してのリーガ・エスパニョーラ優勝を果たした。2012年夏の移籍市場ではルカ・モドリッチ、マイケル・エッシェンらを獲得し、2013年冬の移籍市場ではディエゴ・ロペス、カゼミーロを獲得。2012-13シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャ優勝を果たすも、リーガ・エスパニョーラは2位、UEFAチャンピオンズリーグはベスト4、コパ・デル・レイは準優勝に終わり、モウリーニョはシーズン終了後に監督を退任した。, 2013-14シーズンからはカルロ・アンチェロッティが監督に就任。2013年夏の移籍市場ではイスコ、ダニエル・カルバハル、アシエル・イジャラメンディを獲得したほか、当時の史上最高額ともいわれる移籍金でガレス・ベイルを獲得。同シーズンはレアル・マドリード・カスティージャからヘセ・ロドリゲスらを昇格させ、コパ・デル・レイ優勝を果たしたほか、UEFAチャンピオンズリーグ決勝ではアトレティコ・マドリードとのマドリードダービーとなり、前半36分にディエゴ・ゴディンに先制されたが後半アディショナルタイムにルカ・モドリッチのコーナーキックにセルヒオ・ラモスが頭で合わせて土壇場で同点に追いつき延長戦で一挙3点を取り4対1と勝利し優勝を果たし[注 8]、同大会の前身にあたるUEFAチャンピオンズカップの優勝回数と合わせて合計10回目の優勝となるラ・デシマ(la décima)を達成した。ベンゼマ、ベイル、クリスティアーノ・ロナウドによる3トップは、それぞれの頭文字からBBCと呼ばれた[49]。, 2014年夏の移籍市場ではトニ・クロース、ハメス・ロドリゲス、ケイロル・ナバス、ハビエル・エルナンデスを獲得。2014-15シーズンはUEFAスーパーカップとFIFAクラブワールドカップ2014にて優勝を果たしたほか、クラブ史上最多連勝記録である公式戦22連勝を記録[50][51][注 9]した。しかし、コパ・デル・レイはベスト16、UEFAチャンピオンズリーグはベスト4、リーガ・エスパニョーラは2位に終わり、シーズン終了後にアンチェロッティは解任された。, 2015-16シーズンはラファエル・ベニテスが監督に就任。2015年夏の移籍市場ではルーカス・バスケス、ダニーロ、キコ・カシージャ、マテオ・コヴァチッチらを獲得。同シーズンはクラブ史上初となる公式戦開幕4試合連続完封記録を達成するも、コパ・デル・レイではカディスCF戦で出場停止処分中のデニス・チェリシェフを先発出場させる規約違反を犯したことで失格処分を受けベスト32に終わったことや、リーガ・エスパニョーラ第12節におけるエル・クラシコでの大敗などの理由でベニテスは解任された。その後はレアル・マドリード・カスティージャにて監督を務めていたジネディーヌ・ジダンがトップチームの監督に昇格し、リーガ・エスパニョーラでは2位に終わるも、UEFAチャンピオンズリーグでは優勝を果たす。, 2016年夏の移籍市場ではアルバロ・モラタ、ファビオ・コエントラン、マルコ・アセンシオらを獲得。2016-17シーズンはレアル・マドリード・カスティージャからマリアーノ・ディアスを昇格させ、UEFAスーパーカップ、FIFAクラブワールドカップ2016、リーガ・エスパニョーラにて優勝を果たしたほか、UEFAチャンピオンズリーグ2連覇を達成した[52]。また、スペインのクラブ記録となる公式戦40試合無敗を記録したほか、欧州のクラブチームにおける公式戦連続得点記録も更新した[53]。, 2017年夏の移籍市場ではヘスス・バジェホ、テオ・エルナンデス、マルコス・ジョレンテ、ボルハ・マジョラル、ダニ・セバージョスらを獲得。2017-18シーズンはUEFAスーパーカップ、スーペルコパ・デ・エスパーニャ、FIFAクラブワールドカップ2017で優勝を果たしたほか、UEFAチャンピオンズリーグ3連覇を達成した。また、2015-16シーズンから73試合連続で得点を記録し、公式戦連続得点の世界最多タイ記録に並んだ[54][55]。シーズン終了後、ジダンは監督を退任した。, 2018-19シーズンからはフレン・ロペテギが監督に就任。2018年夏の移籍市場ではティボ・クルトゥワ、アルバロ・オドリオソラ、マリアーノ・ディアスらを獲得。しかし、圧倒的な得点力を誇っていたエースのクリスティアーノ・ロナウドがユヴェントスに移籍したこともあり、チームは公式戦での496分にも及ぶクラブ史上最長の無得点記録を樹立するなど深刻な得点不足に苦しみ、シーズン途中でロペテギは解任され、レアル・マドリード・カスティージャにて監督を務めていたサンティアゴ・ソラーリが暫定監督を経て正式に監督に就任[56]。だがコパ・デル・レイはベスト4、UEFAチャンピオンズリーグはベスト16に終わり、シーズン途中でソラーリは解任される。その後はジダンが再び監督に就任するも、リーガ・エスパニョーラでは3位に終わる。, 2019年夏の移籍市場ではロドリゴ・シウバ・デ・ゴエス、フェルランド・メンディ、エデル・ガブリエウ・ミリトン、ルカ・ヨヴィッチ、エデン・アザールを獲得。しかし、開幕前にマルコ・アセンシオが前十字靭帯を断裂して長期離脱を余儀なくされると、ヨヴィッチや新エース候補だったアザールもコンディションが上がらず。チームは開幕8試合無敗とするも、内容面でかつてのような強さはなく、第9節でマジョルカに金星を献上したり、チャンピオンズリーグでは主力不在のPSGに0-3で完敗する[57]など調子が上がらなかった。しかし、中盤でフェデリコ・バルベルデがブレイクすると、守備強度が向上し、1月に行われたスーペルコパ・デ・エスパーニャを2年振りに制覇するなど調子が上向きはじめ、リーグ戦では26節の「エル・クラシコ」で4年ぶりに勝利して首位に立った。新型コロナウイルスの世界的拡大による約3か月のリーグ中断を経て、2020年6月の再開以降は無敗を誇り、7月16日のビジャレアルCF戦での勝利で、2016-17シーズン以来のラ・リーガ制覇を達成した。その一方で、コパ・デル・レイはベスト8、UEFAチャンピオンズリーグはまたしてもベスト16に終わった。, 2020年夏の移籍市場ではアンドリー・ルニン、マルティン・ウーデゴール、アルバロ・オドリオソラをレンタルから復帰させるに留め、外部からの補強は行わなかった。レアル・マドリードが補強を一切行わなかったのは1980年以来40年ぶり[58]。, チームカラーは白、青。2013年からドバイを本拠地とする航空会社のエミレーツ航空が胸スポンサーとなっている。メーカーはアディダス。, 白いユニフォームは、コリンシアンFCをモデルにしている。スペインのクラブとして初めて背番号があるユニフォームを着用したクラブでもあり、1947年11月23日のアトレティコ・マドリード戦で背番号入りのユニフォームを導入した[61]。, レアル・マドリードのセカンドユニフォームは青や紺、黒などの比較的落ち着いた色を使用することが伝統であった。しかし、2011-12シーズンのチャンピオンズリーグ用セカンドユニフォームには、上下とも赤という明るい色を38年ぶりに採用した[62][63]。また、その翌シーズンにはユニフォームのサードカラーを緑とすることが決定。過去にレアル・マドリードが公式戦で緑のユニフォームを着用したことはなく、親善試合などを含めても1965-66シーズン前の南米遠征でベネズエラのカラカスにてCAリーベル・プレートとの試合で着用して以来およそ半世紀ぶりとなる[64]。, 背番号7は特別な番号とされており、レイモン・コパやアマンシオ・アマロ、フアニート、エミリオ・ブトラゲーニョなどそれぞれの時代のクラブを代表するアタッカーが背負ってきた。特に近年ではラウル・ゴンサレス、クリスティアーノ・ロナウドによってその価値はさらに高められた[65]。また、背番号9もアルフレッド・ディ・ステファノやサンティリャーナ、ウーゴ・サンチェス、ロナウドといった名手に背負われてきた[66]。, イングランドの古豪リーズ・ユナイテッドのユニフォームもレアル・マドリードと同じく白であり、1960年代前半にドン・レヴィーが監督に就任したときに青と金のユニフォームから変更になった。これは、当時UEFAチャンピオンズカップ5連覇などを成し遂げたレアル・マドリードにあやかってチーム作りをしようとしたためだと言われている[67]。, また、メジャーリーグサッカーに所属しているレアル・ソルトレイク(アメリカ合衆国)は、レアル・マドリードを意識して名付けられた[68]。, 1999年2月14日からはレアル・マドリードTVが始まり、選手やスタッフのインタビューや過去のものを含む試合を放送している。2005年にはクラブ初の正式公認映画である[69]レアル・ザ・ムービーが制作され、当時の所属選手も多数出演した。その他、GOAL!シリーズの主人公であるサンティアゴ・ムネスは、GOAL!2にてレアル・マドリードに移籍し、この作品にも当時の所属選手が出演した。, クラブ会員やファンクラブのメンバーには、Hala Madridというファンクラブ誌が毎月発行される[注 14]。試合のレポートや下部組織の情報、インタビューなどを掲載している。, スペインで最も知られているスポーツ紙の一つであるMARCA、ASは共にマドリードに拠点を置いており、連日レアル・マドリードやライバルのアトレティコ・マドリードの情報が発信されている[70]。, レアル・マドリードのファンはマドリディスタ(madridista)と呼ばれている[注 15]。2000年にフロレンティーノ・ペレスが会長に就任したときに、スペインサッカーの実体を理解するためにスペイン各地でスペイン人2000人に応援しているクラブを尋ねたところ、29.2パーセントがレアル・マドリードのファンであると答え[71]、2007年の社会意識調査では国内の32.8パーセントがレアル・マドリードのファンであることが明らかになった[24]。歴史的な軋轢があるカタルーニャ州においても、本拠地を置くFCバルセロナに次ぐファン数を誇っている[72]。, 同じくマドリードを本拠地とするアトレティコ・マドリードは主に労働者階級の支持を受けているのに対し、レアル・マドリードは富裕層の支持を受けているのが特徴である。現地サポーターはレアル・マドリードがタイトルを獲得した際、シベーレスの噴水に集まり祝福する。, 攻撃的なサッカーを好む傾向にあり、1996-97シーズンと2006-07シーズンに監督を務めたファビオ・カペッロは、そのいずれもリーガ・エスパニョーラ優勝を達成したものの、あまりに守備的すぎるという理由からシーズン終了後に解任されている。1989-90シーズンにレアル・マドリードを率いて、最多得点記録を更新してのリーグ優勝を果たしたジョン・トシャックや、2010-11シーズンから2012-13シーズンまで指揮し2011-12シーズンは史上最多勝ち点と史上最多得点を記録して優勝したジョゼ・モウリーニョも守りすぎだと批判された[73]。なお、2005年11月20日のエル・クラシコ、2008年11月5日のUEFAチャンピオンズリーググループステージにおけるユヴェントスFC戦などでは、ホームゲームにおいて対戦相手の選手にスタンディングオベーションを送っている[74][75]。, マドリディスタは世界で一番、選手に厳しいとされており、クラブの象徴的選手だったイケル・カシージャスやバロンドーラーでもあるクリスティアーノ・ロナウドに対しても不甲斐ないプレーをすれば本拠地でもあるベルナベウでの試合中にブーイングしていた[要出典]。, レアル・マドリードの下部組織に所属していたビセンテ・デル・ボスケやフリオ・イグレシアスのほか、プラシド・ドミンゴ、ラファエル・ナダル、フェルナンド・アロンソ、セルヒオ・ガルシアらスペインの著名人がクラブの名誉会員に名を連ねている[76][77]。, 所属選手の個人賞トロフィー。しばしばクラブ史上最高の選手と評されるディ・ステファノ(左)は、史上唯一となるスーパー・バロンドール(右中央)を受賞した, 厳密には、マドリードダービーはこの両クラブのみならず、マドリード市などのマドリード都市圏、マドリード首都圏に本拠を置くチーム同士が対戦するダービーマッチのことを指す。, 当時の規定により、1988-89シーズンのリーガ・エスパニョーラとコパ・デル・レイの双方で優勝したことで自動的に優勝を認定された。, レアル・マドリードに所属している、もしくは過去に所属していた選手もこう呼ばれる場合がある。, キリアン・エムバペ、エディンソン・カバーニを怪我で、ネイマールを出場停止で欠き、強力3トップである"MCN"が全員不在だった。レアル側もセルヒオ・ラモスとルカ・モドリッチが不在だった。, 加熱する女子サッカー人気、ついにレアル・マドリーをも動かす!今夏に女子チーム設立へ, セビージャ会長:「大多数が公平な放映権料分配を望んでいる」 アトレティコ&バレンシアが新たな会議を招集, 2012年にイギリスメディア『sportingintelligence.com』が調査した、世界のスポーツチームの平均年俸ランキング, 海外サッカー - リーガ・エスパニョーラ - レアル・マドリッド - スポーツナビ, http://www.realmadrid.com/ja/about-real-madrid/history/football/1900-1910-juan-padros-and-julian-palacios-found-madrid, http://www.realmadrid.com/ja/about-real-madrid/history/football/1911-1920-madrid-comes-together-and-receives-the-title-of-real, http://www.realmadrid.com/ja/about-real-madrid/history/football/1951-1960-the-five-european-cups-and-di-stefano, La segunda camiseta de la Champions es roja, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=レアル・マドリード&oldid=80430427, 1931-32, 1932-33, 1953-54, 1954-55, 1956-57, 1957-58, 1960-61, 1961-62, 1962-63, 1963-64, 1964-65, 1966-67, 1967-68, 1968-69, 1971-72, 1974-75, 1975-76, 1977-78, 1978-79, 1979-80, 1985-86, 1986-87, 1987-88, 1988-89, 1989-90, 1994-95, 1996-97, 2000-01, 2002-03, 2006-07, 2007-08, 2011-12, 2016-17, 2019-20, 1905, 1906, 1907, 1908, 1917, 1933-34, 1935-36, 1945-46, 1946-47, 1961-62, 1969-70, 1973-74, 1974-75, 1979-80, 1981-82, 1988-89, 1992-93, 2010-11, 2013-14, 1988, 1989, 1990, 1993, 1997, 2001, 2003, 2008, 2012, 2017, 2019, 1955-56, 1956-57, 1957-58, 1958-59, 1959-60, 1965-66, 1997-98, 1999-00, 2001-02, 2013-14, 2015-16, 2016-17, 2017-18, 1981, 1983, 1984, 1985, 1987, 1989, 1991, 1994, 1995, 1996, 1997, 1998, 1999, 2000, 2003, 2005, 2006, 2007, 2008, 2009, 2010, 2011, 2012, 2013, 2015, 2016, 2017, 2018, 1904–05, 1905–06, 1906–07, 1907–08, 1912–13, 1915–16, 1916–17, 1917–18, 1919–20, 1921–22, 1922–23, 1923–24, 1925–26, 1926–27, 1928–29, 1929–30, 1930–31, 1931–32, 1932–33, 1933–34, 1934–35, 1935–36.