今回は室町時代に始まった五山・十刹(ござん・じっせつ)と言う寺院格付け制度について解説していきます。 五山・十刹制度は、足利尊氏の頃に作られた制度で、三代目将軍の足利義満の頃に制度が完成します。 五山は、京と鎌倉それぞれトップ5の寺院が定められます。 墓地や霊園だけでなく、屋内の納骨堂や永代供養墓、樹木... [PR] そんなお悩みを少しでも解決すべく、青山霊廟(東京都港区北青山2-12-9・外苑前徒歩2... 【PR】不安定な世情の中、終末期について意識させられ、ご不安に思われる方も増えてきています。 鎌倉には数多くの神社やお寺があり、どこをどのように廻ればいいのか戸惑う人もいるでしょう。しかし、そういった人におすすめしたいのが「鎌倉五山(かまくらござん)」です。歴史を感じさせる寺院建築や、桜やアジサイ、紅葉など四季折々の美しい花や樹木を楽しむことができます。 「どうやって葬儀社を探せばいいの?」 [PR] 鎌倉には数多くの神社やお寺があり、どこをどのように廻ればいいのか戸惑う人もいるでしょう。しかし、そういった人におすすめしたいのが「鎌倉五山(かまくらござん)」です。, 歴史を感じさせる寺院建築や、桜やアジサイ、紅葉など四季折々の美しい花や樹木を楽しむことができます。まずは鎌倉五山の寺院とその歴史についてご紹介しましょう。, の5つになります。もともと五山とは中国の南宋の皇帝・寧宗(ねいそう)が定めた寺院の格付け制度です。, 中国では 五山官寺制度 といいます。この中国の五山官寺制度は インドの五精舎(ごしょうじゃ) に起源があります。, 日本ではこの五山制度は 鎌倉時代末期に導入 されています。建長寺をはじめとする5つの寺院が鎌倉五山として格付けされました。, 禅宗寺院の格付け制度は五山だけではありません。五山の下に 十刹(じっさつ)・諸山(しょざん) という格付けも存在しています。, 十刹に関しては、京都十刹・関東十刹が定められています。ちなみに中国では甲刹(かつさつ)と呼ばれています。, それぞれの寺院の格付けや、その寺院の 住持(じゅうじ:お寺の住職のこと) は時の朝廷や幕府が決定していました。, 日本では鎌倉時代に初めて五山制度が導入されました。しかし、現代の鎌倉五山に落ち着くまでには、入れ替わるようにさまざまな寺院が格付けされています。, 五山に指定された寺院は時代とともに変化している のです。史料などで確認できる限り、最初に鎌倉五山と確認できるのは浄智寺です。, その後1310年には、建長寺・円覚寺・寿福寺が五山となります。さらに鎌倉幕府が滅びると、後醍醐(ごだいご)天皇に権力が移ります。, すると鎌倉を中心とする五山ではなく、 京都を中心とする五山制度 に変わります。この五山制度で定められたのは、京都の 南禅寺(なんぜんじ)・建仁寺(けんにんじ)・東福寺(とうふくじ) です。, そして、そこに 鎌倉の建長寺・円覚寺が加わることで五山 となっていました。その後 足利義満の時代 まで、さまざまな変遷を経ます。, 春にはソメイヨシノが一斉に咲き乱れる 桜の名所 としても名高いお寺です。広大な敷地・立派な寺院の建物や見事な庭園 が、訪れる人の目を楽しませてくれます。, 建長寺は有名人の墓所があることでも知られています。さらに御朱印は朱印所のほかにも、妙光院・龍峰院・回春院でも頂けます。, 建長寺は 日本で初めて創建された臨済宗のお寺 です。建長寺が創建された時代、1つのお寺が複数の宗派であることもありました。, しかし、建長寺は当時としてはめずらしく 1つの寺で1つの宗派 でした。ところで建長寺のご本尊は地蔵菩薩です。, 開山の僧は 大覚禅師(だいがくぜんじ) です。また 蘭渓道隆(らんけいどうりゅう) という名前でも知られています。, 33歳の時に中国(宋)から渡来、建長寺に入山したのは40歳に入ってからです。その後、蒙古襲来の際には今でいうところのスパイの容疑がかけられてしまいます。, そのため流罪になってしまうなど、波乱万丈な時期もありました。しかし、1278年には再び建長寺に戻り、その後66歳で亡くなっています。, 日本史の教科書でもおなじみの国宝の 円覚寺の舎利殿 があります。関東で一番大きな 洪鐘(おおがね) も国宝に指定されています。, そのほかにも三門(山門)、仏殿などの建造物や見事な庭園などが見どころです。御朱印は御朱印所のほか、仏日庵や弁天堂・舎利殿(公開時のみ)でもいただけます。, 寺の開創は鎌倉幕府の執権であった北条時宗の時代です。無学祖元(むがくそげん)禅師によって、 1282年に円覚寺は開山 しました。, 室町時代から江戸時代の間にはいくつもの火災に見舞われました。しかし、江戸時代の後期に復興しています。, 開山の僧は1279年に中国から日本に渡ってきた 無学祖元禅師 です。円覚寺は正式には「瑞鹿山(ずいろくさん)円覚寺」です。, 鎌倉五山3位の寿福寺は 美しい石畳 の写真でも知られるお寺です。残念ながら寿福寺は、この石畳の先にある中門までしか入ることができません。, ただ、ゴールデンウィークや年始の時期には、中門から先の境内の拝観が可能となります。北条政子や高浜虚子など歴史的な偉人の墓 があることでも有名です。, 寿福寺の御朱印は複数の種類(ご本尊様・観音様など)があります。ただ、一度につき1種類の御朱印しかもらえません。, 1180年に 源義朝(源頼朝の父)の邸宅の跡地に建てられたのが寿福寺 です。開山の栄西は日本における禅宗の普及に尽力しています。, そのため、 日本の禅宗を語る上でも大切な寺院の1つ となっています。寿福寺は江戸時代には最大規模を誇る寺院となります。, 寿福寺の開山の僧である 明菴栄西(みょうあん えいさい※) は臨済宗の開祖です。そして「風神雷神図」で有名な京都の建仁寺の開山でもあります。, また、中国(宋)から日本に戻ってきた際に 茶の種 を持参しています。栄西は日本での茶の栽培と普及に貢献していることでも知られています。, 鎌倉五山の4位は浄智寺です。境内では梅や桜・アジサイなど四季折々の花が咲き乱れ、訪れる人の目を楽しませてくれます。, 見どころは無学祖元の筆とされる山門の 寶所在近(ほうしょざいきん) の額です。さらに ご本尊(三世仏) も有名です。, 浄智寺は複数の札所を兼ねており、そのため御朱印の種類も複数あります。指定がない場合は曇華殿(どんげでん)の御朱印になります。, 浄智寺は 北条時頼(第5代執権)の三男・北条宗政が亡くなった際に建立 されました(1281年ごろ)。夢窓疎石(むそうそせき) などの高名な僧侶が住持したこともあります。, 関東大震災の折には、ほとんどの寺院の建物を失ってしまいましたた。しかし、昭和に入ってから少しずつ復興が進み、現在の姿に至っています。, 兀庵普寧(ごったんふねい)・大休正念(だいきゅうしょうねん)・南洲宏海(なんしゅうこうかい) の3名です。実際に開山として招かれたのは南州宏海です。, 鎌倉五山の5位は臨済宗の建長寺派のお寺・浄妙寺です。境内ではお抹茶を頂きながら、枯山水庭園を眺めることができます 。, また英国式庭園が美しい 石窯ガーデンテラス でランチやお茶を楽しむこともできます。御朱印は拝観受付をした後で御朱印帳を預けます。, 1188年に鎌倉幕府の重鎮だった 足利義兼(よしかね) の創建です。ただ、創建当初は極楽寺といい、真言宗の寺院でした。, その後、義兼の子にあたる 足利義氏(よしうじ)の時に臨済宗となります。名前も浄妙寺と改められました。, 浄妙寺の開山は 退耕行勇(たいこうぎょうゆう) です。源頼朝や北条政子からの信頼も篤かった ようです。, 鎌倉五山巡りで人気なのは、 JR北鎌倉駅のそばにある円覚寺からスタート するコースです。円覚寺から浄智寺・建長寺・寿福寺、そして浄妙寺へと移動、最後は浄妙寺のバス停からJR鎌倉駅に戻るルートになります。, 途中、鎌倉五山以外の東慶寺(円覚寺の近隣)なども含めることもできます。1日あれば十分回ることが可能 です。, 円覚寺から浄智寺へは徒歩約5分、浄智寺から建長寺へは徒歩10分です。また、建長寺から寿福寺までは歩いて約15分です。, ただし、 寿福寺から浄妙寺までは徒歩だと約30分かかります。寿福寺から一度JR鎌倉駅に向かい、駅前からバスで浄妙寺に向かうといいでしょう。, 受験生はテストや受験前に 鎌倉五山を語呂合わせで覚える ことがあります。よく知られている語呂合わせは次の3つです。, テストや入試では鎌倉五山以外にも 京都五山について問われる ことがあります。そんな背景もあって、学生は正確に覚えるのに苦労しているようです。, あなたも鎌倉五山がすべて言えるように語呂合わせで覚えてみませんか?ここではネット上でも人気の 覚えやすい語呂合わせ をご紹介しましょう。, みん終編集部です! 五山版(ござんばん)は、宋 元時代の禅籍の出版隆盛の影響を受け、五山を中心として寺院で開版された刊本のことである。 京都の五山が出版の中心であったが、鎌倉 円覚寺の続灯庵などでも出版された。. 「解体業者ってどうやって探せばいいの?」... 「ずっと家にいて終活が進まない」 概要. みんなの終活ドットコムでは、終活・ライフエンディング、葬儀のマナーやお墓選びなど、終活の知りたいに答えます!. 今回は室町時代に始まった五山・十刹(ござん・じっせつ)と言う寺院格付け制度について解説していきます。, 五山・十刹制度は、足利尊氏の頃に作られた制度で、三代目将軍の足利義満の頃に制度が完成します。, です。一位の上には別格レベルの南禅寺が。下には十刹と呼ばれる10寺院がさらに格付けされていきます。, 教科書なんかだと話がこの辺で終わっていますが、「格付けする意味あるの?」とか「格付けはそもそもどうやって決めてるの?」とか素朴な疑問があると思います。, 五山・十刹で格付けされている寺院は全て臨済宗(りんざいしゅう)という禅宗のお寺です。, なぜ全て臨済宗なのかというと、幕府が臨済宗推しだったから。なぜ幕府が臨済宗推しなのかというと、関東地方で臨済宗が武士たちに支持されていたからです。, しかし、京で昔から強い影響力を持つ比叡山や興福寺などの勢力は、臨済宗のことを良く思いません。臨済宗が広まると比叡山や興福寺らはその立場を失いかねないので、これは当然の反応です。, ちなみに、京の仏教勢力と臨済宗の対立は、臨済宗の開祖栄西(えいさい)が活躍していた頃からあったとても難しい問題でした。当時の時代背景については、以下の記事を合わせて読んでいただくとよーくわかると思います。, 室町幕府が京に置かれるようになると、案の定、臨済宗と比叡山・興福寺との対立が深刻化し、室町幕府は臨済宗の保護に乗り出します。, そこで使われたのが五山・十刹で、中国(当時は南宋)の寺院制度を参考にした制度でした。, 寺院を格付けして室町幕府公認の公式なお寺とすることで、「臨済宗の寺院に手を出したら、室町幕府が黙ってないからな」と敵対勢力を牽制することができるわけです。, 実際、1368年には別格レベルの南禅寺と比叡山の僧たちの間で暴動が起こり、南禅寺の門が破壊される事件が起こっています。この時は、幕府は南禅寺を支援しましたが、神の名の下に攻め込む延暦寺の伝家の宝刀「強訴(ごうそ)」に勝つことができませんでした・・・。, 五山・十刹制度は臨済宗を保護する目的を持っていましたが、その格付けは一体どのようにして決められたのでしょうか。, まず、別格の南禅寺ですが、「天皇家との結びつきが強い」ということで別格扱いになりました。不動のNO.1です。, 一位の天龍寺は、室町幕府創設者の足利尊氏が建立したお寺です。幕府の創設者が建てたお寺なので当然第一位です。, 二位の相国寺は、三代目の足利義満が建立したお寺です。足利義満は室町幕府の全盛期を築いた男。義満が生きているうちは相国寺が一位でしたが、義満が亡くなると二位にダウンしました。, 三位の建仁寺は、臨済宗の開祖栄西が初めて京都に建立した禅寺で由緒あるお寺なので第三位。, 実際の格付けにはもっと複雑な理由があったかと思いますが、大雑把にはこんな感じです。, 五山・十刹制度は、室町幕府との親密度をベースに格付けしただけであって、決して「禅宗のお寺として第4位の東福寺が第一位の天龍寺より劣っている」とかそんな話ではありません。繰り返しますが、あくまで室町幕府の都合で勝手に決めた格付けに過ぎません。, なので、将軍が変わると五山・十刹のランキングが微妙に変わってしまうこともあったし、さらに言ってしまうと室町幕府が格付けするものなので、室町幕府が滅びるとそれに合わせて五山・十刹の制度も消えることになります。. 京都五山には寺格があり、別格が南禅寺になっています。その後第一位は天竜寺、第二位は相国寺、第三位が建仁寺、第四位が東福寺、第五位は万寿寺となっています。. 「家の解体を考えているのだけど、どこに相談すればいいの?」 中国南宋時代の五山官寺制度で、禅宗の保護と統制を目的に、格式の高い5つの寺院を決定したことに由来しています。 京都五山(きょうとござん)とは、臨済宗の寺院の寺格で、別格とされる南禅寺とともに定められた京都にある五つの禅宗の寺院。, 五山の制度はもとは南宋の寧宗のころにインドの五精舎十塔所にならって創設されたものである[1][2]。, 鎌倉幕府は既存宗門などの既存勢力に対抗するため新興の臨済宗を保護する政策をとり、政争や戦乱によって勢力下に入った荘園や領地を御家人に分け与える一方、一部を寺社領とし、幕府の領地も含めてその管理を禅寺に委ねていた[3]。, 鎌倉末期に始まる五山制度には明らかでない点もあり最初に五山と称されていた寺院も諸説ある。, 今枝愛真の説によると最初に鎌倉幕府によって五山と称せられていたのは鎌倉の諸禅刹で「当初の五山は鎌倉のみに限定されていた」としている[1]。今枝によると建武の新政のもとで京都の大徳寺と南山寺が五山の第一位の寺格とされ、さらに建仁寺や東福寺などの諸寺が五山に加えられるようになったとしている[1]。暦応4年(1341年)、足利直義の評定により、第一位を建長寺(鎌倉)と南禅寺(京都)、第二位を円覚寺(鎌倉)と天龍寺(京都)、第三位を寿福寺(鎌倉)、第四位を建仁寺(京都)、第五位を東福寺(京都)とし、準五山に浄智寺(鎌倉)を含めたとする[1]。, ただし、鎌倉時代の創設当初は鎌倉と京都で一緒に五つの寺を五山に定めていたとする説もある(室町時代に京都と鎌倉に分けて五山が定められたとみる)[2]。小此木輝之は鎌倉時代の五山を、建長寺、円覚寺、寿福寺、建仁寺(京都)、浄智寺と推定している[4]。, 室町時代の足利義満が将軍職の至徳3年(1386年)、南禅寺を別格として五山之上とし、京都の天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺、鎌倉の建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺をそれぞれ五山に決定しその後の五山制度の根幹となった[1][2][3]。, 「五山十刹」という場合、別格寺たる南禅寺を筆頭に、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺の「五山」と、等時寺、臨川寺、真如寺、安国寺、宝幢寺、普門寺、広覚寺、妙光寺、大徳寺、龍翔寺の「十刹」の総称をいう[3]。, 室町幕府は五山禅寺に対して不入権や諸役免除などを認める一方、五山禅寺は幕府の事務の代行や上納金などの財務支援を行う関係にあった[3]。五山の禅僧には宗教活動を行う西班衆と寺院の経理や荘園の管理を担う職能集団の東班衆がいた[3]。, 室町時代、幕府との関係が近い五山禅寺は朝廷との関係が近い比叡山延暦寺や南都興福寺と対立関係にあった[3]。大和国を支配する興福寺は奈良への禅寺の進出や臨済宗の僧の入国を認めなかった[3]。また、天龍寺落慶法要への天皇行幸では延暦寺から異議が唱えられ(1345年)、南禅寺の関銭をめぐる園城寺との対立(1367年の南禅寺楼門事件)では延暦寺は全面的に園城寺を支援した[3]。, しかし、応仁の乱で各寺は壊滅的な被害を受け、東班衆の基盤が失われた一方、各地では守護大名の力が強まって五山の荘園管理は難しくなり関所の自由通過権なども失われた[3]。東班衆の去った荘園では守護大名が国人に管理させる守護請が多くなった[3]。また、五山勢力が去って空白地となった北陸地方には一向宗の勢力が進出し新たな拠点を築いた[3]。, ※…なお、足利義満の意向により、応永8年(1401年)3月5日に相国寺を第一位、天龍寺を第二位とする順位変更が行われたが、義満没後の応永17年(1410年)2月28日に元に戻された。, 今日では京都五山=京都の禅寺の格付と一般に勘違いされやすいが、それは決して正しい解釈ではない。京都五山はあくまで足利氏の政治、政略的な格付けであり、大徳寺は同様の理由から格を下げられ、後に五山制度から脱却している(詳しくは大徳寺の項目を参照)。また、妙心寺は大内義弘に肩入れしたことが原因で義満の怒りを買い、寺領すらも没収されていた。再興を果たすのは江戸時代からである。, (別格)南禅寺 - (1)天龍寺 - (2)相国寺 - (3)建仁寺 - (4)東福寺 - (5)万寿寺, 禅宗の官寺機構 : 五山十刹諸山の国別分布について (昭和三十六年五月十三日 会員 坂本太郎紹介), https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=京都五山&oldid=79064928.