世間のイメージとはそういうものなのでしょうか?, https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1151217066.

昔ピアノを習っていまし... ギターの伴奏は、なぜコードを弾くのですか?なぜボーカルのメロディと同じ音程を弾くのではだめなのですか?.

あ、吉田拓郎っていってもチミたち知らないかな?, バンド・1,035閲覧・xmlns="http://www.w3.org/2000/svg">25, King Gnuの三文小説mv出ましたね。常田さんはピアノ







10月08日 17:52, [61] mixiユーザー





詐欺メールが届きました。SMSで楽天市場から『購入ありがとうございます。発送状況はこちらにてご確認下さい』 と届きその後にURLが貼られていました。 mixiユーザー ですよね? 08月25日 14:17, [46]



10月23日 12:19, [69] 開いた後は発送状況を確認できるサイトに移動することは無く、ポップアッ... 結婚したことを後悔しています。私と結婚した理由を旦那に聞いてみました。そしたら旦那が「顔がタイプだった。スタイルもドンピシャだった。あと性格も好み。」との事です。 mixiユーザー 吉田 拓郎(よしだ たくろう、1946年4月5日 - )は、日本のシンガーソングライター、音楽プロデューサー。本名同じ。旧芸名は平仮名のよしだたくろう。, 竹田企画(事務所)、avex trax(レコードレーベル)に所属。鹿児島県伊佐郡大口町(現在の伊佐市)出身。広島商科大学(現在の広島修道大学)卒業。血液型A型。身長176.5 cm。, 妻は森下愛子(1986年結婚)。元妻は四角佳子(1972年 - 1975年)→浅田美代子(1977年 - 1984年)。, 多くの芸能人や関係者・ファンが「拓郎」と呼び、「吉田(さん)」と呼ばれることは皆無に近い。, 日本のシンガーソングライターの草分け的存在であり[2][3][4][5][6][7]、1970年代初頭、マイナーであったフォークとロックを、日本ポップス界のメジャーに引き上げた歌手である[8][9][10][11][12][13]。また、大規模ワンマン野外コンサート、ラジオの活性化、CMソング、コンサートツアー、プロデューサー、レコード会社設立などのパイオニアとして、日本ポピュラーミュージック史において特筆すべき役割を果たした[12][14][15][16][17][18]。日外アソシエーツ『ポピュラー音楽人名事典』は、「ニューミュージックを代表する音楽家」と掲載している[19]。2000年2月号の日経エンタテインメント!の特集「J-POPの歴史をつくった100人」で、“J-POPの開祖”と記される[20]。, 1946年4月5日に、鹿児島県伊佐郡大口町(のちの大口市、現在の伊佐市)で生まれる[21]。その後、鹿児島県鹿児島郡谷山町(のちの谷山市、現在の鹿児島市)に転居し[22]、谷山小学校に二年生まで在学[21](歌手の西郷輝彦と同期生)。その後は広島県広島市南区西霞町で育つ。拓郎という名前には「故郷を拓け」という意味が込められている[22]。両親は朝鮮羅南からの引き揚げ者[21]。父は鹿児島県伊佐郡羽月村出身で堂前家から吉田家に養子に入った人物で、朝鮮総督府で農林官吏として勤務した後に鹿児島県の郷土史家となった吉田正廣[23][21][22]。兄は鹿児島ラ・サール高校出身で、母はラ・サール高校の学生寮で舎監をしていた[22]。拓郎自身は両親の出自については詳細はよくわからず、母方の祖母が広島の出身と話している[21]。1955年に両親が別居し、立教大学に進学した兄は上京、母親は姉と拓郎を連れて広島に転居した[21]。同年4月、広島市立皆実小学校へ転校[24]。鹿児島時代は姉と同じ部屋で生活していたので、姉が大好きな歌謡曲をよく聴いていたことに、拓郎も大きな影響を受けた[21]。立教大学ジャズ研でピアニストを目指した兄が、夏休み等に女性同伴で帰郷したのがきっかけで音楽に興味を持つようになった[25]。幼少期から喘息持ちで体が弱かったため家にいることが多く、母に本を買い与えられていたが、ウクレレを買ってもらい、小学校高学年か中学校に入って音楽を始めた[25]。皆実小学校~翠町中学校の一学年上に長谷川和彦[26]。1962年に皆実高校に入学し、インストゥルメンタルバンドを結成し、ウクレレを担当した[27]。曲を作り始めたのは高校に入ってからで、好きな女の子が出来るたびに、曲を作って渡した[25]。, 1965年に広島商科大学(現在の広島修道大学)に入学し、カントリー&ウエスタン部と応援団に入部した。中学の同級生と新たにバンドを結成し、ドラムスを担当した。同年秋に初コンサートを開催し、ビートルズのコピーのほかオリジナル曲も演奏した。この年、メンバーと上京し渡辺プロダクションに売り込むがグループ・サウンズブームも未到来の時代であり、相手にされなかった[28]。, 1966年大学二年のとき、コロムビア洋楽部主催のフォークコンテストにソロで出場[25]。「テイク・ファイヴ」のリズムパターンに三里塚闘争から着想を得た歌詞を乗せた自作曲「土地に柵する馬鹿がいる」を6弦のエレキギターを12弦ギターに改造して歌唱し[25]、中国大会2位、全国3位となる[29]。『平凡パンチ』で「和製ボブ・ディラン」と紹介され広島で知名度が上がるが[25]、広島の音楽仲間からは「あれはフォークでない」「広島を歌っていない」などと批判も出て居心地も悪く[30]、単身上京した[30]。 1967年に広島見真講堂で開催された『第1回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』中国地区大会ロック部門で優勝。米軍岩国基地でも定期演奏し[31][32][33]、兵隊相手の演奏で初めて音楽の凄さを知った[34]。しかし、ベトナム戦争の侵略基地である岩国慰問が、参加資格のないプロの演奏と抗議が寄せられ、カワイ楽器在籍バンドでもあったことから、ヤマハの関係者から全国大会への出場を辞退してもらえないかと申し入れられ、出場辞退した[35]。翌1968年にも、『第2回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』に出場し中国地区優勝、ヴォーカル・グループサウンズ部門で全国4位となる[36][37]。また、吉田の発案で広島の3つのフォーク団体によるアマチュアフォークサークル『広島フォーク村』を結成[38][39]。レコードも出さないうちに、地元ラジオにリクエストが殺到し、NHK広島に出演したり、中国放送でDJを担当したりした[40]。この頃激しい学園闘争が繰り広げられた広島大学のバリケードで囲まれたステージで『イメージの詩』を歌い[41]、終了後、白いヘルメット姿の学生に取り囲まれ激しいヤジを浴びせられた[42]。, 1969年には、カワイ楽器広島店[43] に就職内定したが[44]、上智大学全共闘のメンバー[45] が自主制作(ユーゲントレーベル)で「広島フォーク村」名義のアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を制作することになり参加した[46]。, 1970年3月頃ユーゲントレーベルから『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を自主制作し、手売りで販売した[47]。またエレックレコードが、『イメージの詩/マークII』を無許可でシングルカットし関東広島地域でリリースしたが、吉田の抗議で音源を録り直した。そこでエレックレコードの浅沼勇に口説かれ、「ダウンタウンズ」を解散して上京した[7]。, 1970年4月に、インディーズレーベルのはしりであったエレックレコードに契約社員として就職する[48][49]。エレックはまともな仕事は取ってこれず[50]、愛川欽也が司会をしていた子供番組のオーディションに参加し「イメージの詩」を歌って審査員の子供に落とされたり、NHKのオーディションで藤山一郎に落とされたりした[51]。6月27日に『広島フォーク村アルバム発売記念コンサート』を東京厚生年金会館で開催した際、客はほとんどいなかったが[52]、当時イベントの企画などを手がけていた後藤由多加の目にとまり、コンサートなどで起用される[53][54][55]。後藤はこれを機に重要なパートナーとなる[56]。1971年8月7日〜9日、『第3回全日本フォークジャンボリー』に出演[57]。10月、後藤とともに、アーティスト主体の音楽制作プロダクション[58]『ユイ音楽工房[注釈 1]』を設立[58][59]。11月には広島フォーク村の後輩・大久保一久が組んでいたアマチュアグループのために初の楽曲提供[60]。, 1972年1月にCBSソニーに移籍し、アーティスト兼プロデューサーとして契約を結ぶ[61]。移籍と同時に発売した「結婚しようよ」がオリコンチャート3位、40万枚以上を売り上げた。それまで長髪の若者たちの反体制的な音楽としてしか見られていなかったフォークが一躍普通の音楽として認知された[62]。それまでサブカルチャーだったフォークが、メインカルチャーへ浮上する分岐点になった[62]。さらに「旅の宿」もヒットしたことで作曲の依頼が舞い込んだ。モップスに「たどりついたらいつも雨降り」や、猫に「雪」「地下鉄に乗って」を提供し、拓郎はフォーク歌手としてだけでなく売れっこの作曲家となり、人気が高まった[63]。2月26日に公開された近代放映製作・東宝配給の映画『百万人の大合唱』(須川栄三監督)の劇中、「今日までそして明日から」を歌唱[64]。6月には長野県軽井沢の「聖パウロ教会」で四角佳子と結婚式を挙げた[65]。「町の教会で結婚しようよ」など、若者の新しいライフスタイルを表現した歌は、ブライダル業界にも大きな影響を与えた[66]。同月、CBSソニーとプロデューサー契約を結び、ワンマンレーベル『Odyssey』を立ち上げた[67][68]。, 1973年1月には、前年バックバンドを務めた柳田ヒロのグループを発展させ新六文銭を結成。5月23日に、4月18日の金沢公演の夜に女子大生に暴行されたと訴えられ、逮捕される。8日間の拘留後、女子大生の虚偽であることが判明して不起訴となり、6月2日に釈放された[69][70]。釈放の翌日に、神田共立講堂のステージに立つ[71]。しかし、マスコミのバッシングにあい、ツアーのキャンセル、曲の放送禁止、他人への提供曲も放送禁止、CM(スバル・レックス(富士重工)、テクニクス(松下電器))の自粛といった処置がとられた[70]。そんな中でも「明星」編集部は、不起訴後、いち早く拓郎の独占自筆手記を掲載した[72]。, 拓郎は、梓みちよに「メランコリー」、1974年1月15日に、森進一に「襟裳岬」を提供する。この「襟裳岬」は同年の第16回日本レコード大賞を受賞する快挙となったが、当時国民的な大イベントであったレコード大賞の授賞式に拓郎は上下ともジーンズの普段着で登場し、平然と賞を受け取ったため物議を醸した[73]。, 1975年には、かまやつひろしに「我が良き友よ」を提供、この曲もヒットとなった。1975年5月に、高額納税者番付1974年度納税分で、歌手部門にフォークシンガーとして井上陽水とともに初のランク入りとなる(拓郎5位、陽水7位)[74][75][76][77]。, 6月1日にCBSソニーの拓郎が、ポリドールの井上陽水、エレックの泉谷しげる、ベルウッドの小室等と共に、アーティストの手になる初めてのレコード会社[58]『フォーライフ・レコードを発起した[5][53]。これを機に「吉田拓郎」と改名する。12月に、オールナイトニッポン最終回で四角佳子との離婚を発表する[78]。この年森山良子に提供した「歌ってよ夕陽の歌を」は森山の新境地を切り開き"フォークの女王"に戻らせる[79]。, 1976年4月に、フォーライフ第1回新人オーディションでグランプリを獲得した川村ゆうこをプロデュースし、デビュー曲「風になりたい」を作詞作曲。本楽曲は拓郎自身「自分で作った曲で一番」と述べている[80]。11月に、小室・拓郎・陽水・泉谷ら4人のスプリット・アルバム『クリスマス』を初回プレス30万枚で発売し、オリコンで1週のみ1位となったものの、累計が10万枚にも満たず、フォーライフの屋台骨を揺さぶることとなった。翌年、フォーライフは2年目の決算で8億円の赤字を出す。6月には、小室に代わり、フォーライフ2代目社長に就任する。7月に浅田美代子と2度目の結婚。9月10日に、井上陽水が大麻所持(大麻取締法違反容疑)で逮捕。社長として記者会見で平謝りし、嘆願書を集めて東京地検に日参するなど陽水の救済に尽力した[81][82]。, 70年代後半には、キャンディーズに「やさしい悪魔」、石野真子に「狼なんか怖くない」を提供。「やさしい悪魔」は、後年、町田ガールズ・クワイアがカバーした。1979年2月、『たくろうオン・ステージ第二集』(1972年12月発売)収録の「ポーの歌」が浜口庫之助の曲の盗作と報じられる。拓郎自身は初めからオリジナル曲とは言っていなかったが『たくろうオンステージ第二集』を無許可でリリースしたエレックが吉田拓郎作詞・作曲とクレジットしてしまったというのが真相である[83][84]。, 1979年『吉田拓郎 アイランド・コンサート in 篠島』が開催され、オールナイトで69曲、約8時間歌い、観客2万人動員した[85]。また、特別出演としてデビュー直後の長渕剛がステージに登壇した。, 『TOUR 1980』では過去の曲を一切やらず、全て新曲で通すなど[86]、過去との決別を宣言し、初の海外録音作品『Shangri-La』を発表した[16]。, 1982年6月に、ツアー最中の株主総会で、アーティスト業に専念するため、フォーライフ・レコード社長を退任すると発表された[85]。, 1985年6月15日には、国立競技場で国際青年年 (IYY) 記念イベント「ALL TOGETHER NOW」を小田和正と共に企画運営し、司会を務めて、5万人の観客を動員した。同年、オールナイトライブ『吉田拓郎ONE LAST NIGHT IN つま恋』が開催された。, 1986年に、映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』に高杉晋作役で出演。, 1988年1月1日に、プライベート・オフィス「宇田川オフィス」を設立する[87]。, この頃からテレビ出演が多くなり、1989年にNHK総合テレビで放送された『愉快にオンステージ』にホストとして出演。さらに、1993年には、TBS系で放送されていたドキュメンタリー番組『地球ZIG ZAG』の3代目司会者に高橋リナとともに起用された。また、本人自ら出演した『サッポロ☆ドライ』に出演し話題となり[85]、CMソングとなった「すなおになれば」もヒットした。, 1988年6月16日、日清パワーステーションにて、ライブハウスでのコンサートを行う[85]。, 1989年2月8日、アルバム『ひまわり』を引っ下げて行われた全国ツアーがスタート。同年3月15日に、東京ドームでコンサートを行い、5万人を動員する[85]。, 新潟県吉田町の有志団体“若者共和国”からの依頼で、1992年4月に「吉田町の唄」を発売。2004年には吉田ふれあい広場に歌碑が建立される。, 1994年8月16日に参加した『日本をすくえ'94 〜奥尻島、島原・深江地区救済コンサート〜』(日本武道館)はテレビ放送され、同年の大晦日には、『第45回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たす。, 1996年に、まだCDデビュー前だったKinKi Kidsと共に『LOVE LOVE あいしてる』の司会を務め大きな話題を呼び、翌年の1997年には『LOVE LOVE あいしてる』のバックバンドを務めたLOVE LOVE ALL STARS共に制作したセルフカバーアルバム『みんな大好き』が20万枚以上の売り上げを記録した。, 1999年9月30日にフォーライフ・レコードとの専属アーティスト契約を解消し、2000年4月にインペリアルレコードに移籍する。移籍したのは、交友のある飯田久彦がテイチクエンタテインメント代表取締役社長に就任したからである。, 2003年4月に、肺がん手術のためコンサートツアーは延期となるが、手術は無事成功し、秋には復帰コンサートで全国に元気な姿を見せた。ビッグバンドでのコンサートツアーはこの年から2006年まで毎年行われた。, 2008年8月3日に母校の広島修道大学(旧広島商科大学)で在学中に作詞作曲した「今日までそして明日から」の歌詞と、1970年代の写真入りの歌碑が披露された。, 2009年2月にavex traxに移籍する[15][注釈 2]。6月21日には、生涯最後の全国ツアー『Have A Nice Day LIVE 2009』(10ヶ所10公演予定)がスタートするが、7月8日開催の大阪公演開始45分前に、体調不良による公演中止が決定した。診察の結果、慢性気管支炎の悪化で約2週間の自宅療養を行うことになり、福岡、広島、神戸の3公演は中止となった。, 7月23日にも、つま恋へ移動する車中で体調の異変を訴え、その日の内に残り2公演も中止となる[88]。, 2013年1月30日発売の、前年のライブを収録した『吉田拓郎 LIVE 2012』(Blu-ray・DVD・CD付DVD)が、オリコン週間DVDランキング総合6位となり、TOP10入り史上最年長(66歳10ヶ月)を記録する[89]。, 2017年3月8日に『ニッポン放送「春の新番組」パーソナリティ発表記者会見』にて、新番組『吉田拓郎 ラジオでナイト』をスタートすることが発表された[90]。, 山本コウタローは、声だけでなくビートの強さ、リズムの良さ、その上歌詞も素晴らしい一方で「イメージの詩」を歌いながら「マークII」のようなポップな曲も歌える幅の広さが衝撃的だったと話している。また自分の歌、メッセージ、スタイルを人にどう伝えられるか、どう守るかといった"自己プロデュース能力"が早くから秀でていたと話している[182]。, 小坂忠や久保田麻琴、荒井由実などのバックでドラマーを務めた平野肇は、拓郎の『今はまだ人生を語らず』(1974年)のレコーディングに参加したが、「ペニーレインでバーボン」に於ける拓郎のボーカルスタイルに驚き、「こんなボーカルははじめてだった。ロックのセッションもずいぶんやったし、いろいろなタイプのボーカリストともやってきたけど、段違いのパワーを感じた。しかも日本語がこれほど突き刺さってくるという驚き。完璧にロックであり、ロックスピリッツに満ちた歌だった」と感想を述べている[194]。, 織田哲郎は「日本のシンガーで声の説得力が最もあるのは拓郎さんであるというのが持論」と述べている[195]。, YO-KINGは「拓郎さんの男っぽさが魅力でした。独特の拓郎節とでもいうべきメロディー。そして、あの声はやっぱり凄いですよ。説得力というか、迫力というか。きれいに歌おうと思ってない。大声でしゃべっているような感じで歌っちゃうのが、かっこいいじゃんという啓示を受けた気がする」と述べている[196]。, 小栗勘太郎は「自分の周りの極私的なことしか描いていないのに、時代の雰囲気が伝わってくる。拓郎の歌のリアリティは、虚飾を排したシンプルな歌詞が直裁に伝わる旋律と拓郎の声の合わせ技の妙」と解説している[9]。, こうした作詞法[注釈 8] や作曲法、テーマ設定[注釈 9]、楽曲アレンジ、歌唱法などは、その後の日本のフォークとロックに有形無形の影響を与えることとなった[注釈 10][197]。渡辺プロダクションのお抱え編曲家だった東海林修は「旅の宿」が世に出たとき、ニューミュージックのパワーより、フォークやロックを回路して滲み出てきた日本の土着性を聴き分け「豆腐と障子紙以外に、はじめて日本のオリジナルが出た」と唸ったという。ナベプロにニューミュージックのセクションが創設されたのは「旅の宿」の大ヒットがきっかけ[198]。, アマチュア時代は長くロックバンド(R&Bバンド)を組んでおり[16][31][199]、ザ・ベンチャーズやボブ・ディラン、サム&デイヴ、ビートルズらを渉猟した拓郎は[200]、フォークのみに依拠したわけではない[16][109][201][202]。多様な音楽ジャンルの楽曲制作が認められるため[104]、元来、ポップス歌手でありフォークブームを巧みに利用したにすぎない、という論調もある[203]。吉田拓郎が初めてアイドル雑誌に取り上げられたのは『月刊平凡』1971年1月号と見られるが[204]、この記事に「吉田拓郎さんといっても、まだ知らない人が多いかも知れない。現在、広島商科大学に在学中の学生シンガーだ。(中略)今回のLP『青春の詩』は、作詞、作曲、ギター、歌、すべて彼ひとりの作品集。フォークとロックの絶妙なコントラストが、音楽界に新分野をもたらしている」と記述されており[204]、吉田拓郎はデビュー時から音楽性にロックの要素が含まれていたことは、後に音楽評論家が言及しただけではなく、当時のマスメディアからも認識されていた。拓郎は「僕自身、まったくフォークに心酔してなかったのに、岡林がフォークの神様って言われてたけど、それが何か僕の方へ押しよせてきた。しかも神様じゃなくてヒーローとして。広島から出てきたわけの分からん奴が、いきなりヒーローになってしまった。僕にはフォークっていうのは胡散臭く思えて仕方なかった。でもフォーク・ムーブメント自体、僕にはおいしかったんですよ」などと話している[25]。篠原章は「『青春の詩』で試みた反体制イディオムと青春歌謡を直結させる手法は新鮮で、後のロッカーもこの手法を無意識に踏襲している」[205]、相倉久人は、1976年6月14日、21日号の「日本読書新聞」に掲載した「日本語ロック」に関する評論で「アメリカの物まねからスタートしたフォークが、吉田拓郎や泉谷しげるたちの成功によって、ロックやソウルにさきがけて、現代にふさわしい日本語的な表現に到達した」[206]、スージー鈴木は「吉田拓郎は二面性があって、非常にポップで都会的な曲を作って、ビートルズの洋楽性を日本の音楽界にもたらした人間でもありながら、日本の土着性を表現した曲もたくさん歌っている」[17]、北中正和は「吉田拓郎の音楽の衝撃は、短音階の曲とロック的なサウンドを結びつけたこと」と論じている[109]。矢沢保は「もともと真のフォークソングとは何の関係もない歌手だが、全共闘の協力でLPを出したのを出発点に、CBSソニーという大資本に乗りかえて、自分の身体もろとも、フォークソングを売り渡し、すっかり『現代歌謡曲』にしてしまった。拓郎の場合は、かつて全学連委員長だった香山健一が学習院大学教授におさまりかえって自民党の走狗になり下っているのと、あまりにも似ているように思います」などと批判している[207]。牧村憲一は「拓郎さんは大きく分けるとフォークの世界の人なんですけど、彼の果たした役割というのは、サウンドの世界とフォークの世界のちょうど中間に立ってて、両方をうまく仲介できた」と述べている[208]。拓郎と陽水によって成されたフォークメジャー化の流れが、ニューミュージックやジャパニーズロックへつながっていく[13]。, 桑田佳祐は著書で、拓郎の歌謡曲的な部分、コマーシャルソングの音作りに共感したことを曲作りを始めるきっかけとして挙げている[209]。, 1988年に拓郎の「たどりついたらいつも雨ふり」をカバーした氷室京介は、物心ついて最初に聴き始めた音楽は、洋楽ではビートルズ、日本では吉田拓郎であるとあかし、自身の中で拓郎はロック歌手であり、ボブ・ディランとかニール・ヤングとかと変わらない存在であると話している[210]。, ニューミュージック系歌手によるCMソング製作のはしりである[260][261]。早くからCMソングを自作自演し、反商業主義のプロテストソングと一線を画した[200][262]。1960年代の異議申し立ての運動と連動していたフォークにおいては、CMソングを作り歌うなどということは、商業的で否定されるべきことだった。拓郎にはそんなこだわりはなく、フォークソング対CMソングといった対立は、まったくなかった[263]。, 松下電器産業「Technics」の立体オーディオ「4チャンネルステレオ」(SC-1550N) の発売に伴い、当時松下電器の宣伝事業部の堀川靖晃が、作詞・山川啓介、作曲・編曲を渋谷毅に依頼してCMソングを製作することになった。本CMソングは、「僕の旅は小さな叫び」という曲であり、作詞期間4週間、制作費約100万円と当時のCMソングとしては多額の費用がかかった[264]。, 1972年には「旅の宿」のヒットに目をつけたフジ・フイルムが拓郎にCMソングの製作を依頼し、拓郎作詞・作曲・歌によるCMソング「HAVE A NICE DAY」を放送した(背景には1970年から国鉄の“ディスカバー・ジャパン”キャンペーンが始まっていたことがある)[261][266][267]。彼のしゃべり言葉をそのまま生かし、歌に合わせて若者が自由にポーズをとるという内容が、この広告をヒットさせる大きな要因となった[268]。"HAVE A NICE DAY"は流行語にもなった[269][270][271]。『Have A Nice Day』第一弾(気ままに写そう編)に続き、『Have A Nice Day』の第二弾(天然色写真編)は、全編広島弁の歌詞で歌われており、方言で歌われたCMソングとして先駆的なものとなる[268]。CMの作詞作曲料は85万円[264]。, 1972年、「僕の旅は小さな叫び」で前年に続きACC全日本CMフェスティバル入賞[272]。同年、りりぃに山発産業フェミニンのCMソングを提供し、スバル・レックス(富士重工)のCMで「僕らの旅」を自作歌唱した。このスバル・レックスのCMもテレビ・ラジオで大量露出し、当初はソノシートの非売品だったが反響が大きく、後にレコード盤が製作された[264][273]。, これら全てのCMソングのソノシート、あるいはレコードは、全てステレオ購入者のオマケや、懸賞のプレゼントなどの非売品で、正規にレコード発売された物はない。当時はCMソングをレコード化して商売として売り出すという発想がまだない時代であった[264][266]。, これらをきっかけに企業はフォーク・シンガーをCMに起用するようになった[274]。広告の世界とは交流のなかったフォークやロックのアーティストがCMに関わるようになったのは「HAVE A NICE DAY」が成功してからである[269][275][注釈 16]。, 小川博司は、「吉田拓郎がこの時期手掛けたCMソングはフォークの日常感覚により活性化された。逆に、商業主義的なものとは無縁の存在で、そこに自らの存在理由を見出していたフォークは、CMの世界に一歩踏み込み、ここでも方向転換をとげた。この後フォーク対歌謡曲、広告音楽対レコード流行歌といった区分は、ますます曖昧なものとなり、CMソングがレコード化されることも頻繁になった」と論じている[276]。, 桜井哲夫も、「吉田拓郎が『フォーク』と『歌謡曲』の区分を壊したこと、CMソングに進出したこと、この二つの点こそが拓郎以後を特徴づけることになった。フォーク対歌謡曲、CM音楽対レコード流行歌といった区分は揺らぎ、融合してゆくことになった」と論じている[277]。, 森進一に提供した「襟裳岬」の大ヒットをきっかけに渡辺晋は、拓郎の楽曲の実力を買って、キャンディーズなど多くの自社所属歌手への楽曲提供を拓郎に依頼した[278]。渡辺プロダクションは、これを機に布施明へ小椋佳の「シクラメンのかほり」(1975年)、三木聖子へ荒井由実(1976年)の「まちぶせ」など、他社に先駆け積極的にニューミュージック系ミュージシャンの起用を行った[279][280]。これ以降、楽曲を媒介にして旧勢力と新勢力の両者は交流を始め、演歌界を含む歌謡界がニューミュージック系ミュージシャンの楽曲を取り上げることがブームになり定着していった[281][282][283]。これはニューミュージックという言葉をより曖昧なものとしてしまった原因の一つでもあるが、この後阿久悠や筒美京平のように歌謡曲側の作家が、それぞれ桑名正博、Charのようなニューミュージック側の人に曲作りをするという現象も多くなった[284][285]。またCMソング作家だった小林亜星が作曲した「北の宿から」が1976年、第18回日本レコード大賞等を受賞するというようなケースも出てきた[286]。「襟裳岬」の前までは演歌系歌手は演歌系作家が作る、のようなはっきりした図式があった[287]。これらはフォークが歌謡曲に取り込まれた、歌謡曲化したともいえるが、フォークがアンダーグラウンドから脱し市民権を得たともいえる[282][288]。「襟裳岬」が世に送り出されていなければ、今日のJ-POP自体がかなり異なったものになっていた[183]。「襟裳岬」は両者が邂逅した記念碑的作品であった[282]。拓郎は同年、浅田美代子に「じゃあまたね」を小柳ルミ子にも「赤い燈台」を書き下ろし、シンガーソングライターとアイドルの蜜月という架橋を同時に築く。歌謡曲の進化をもたらした異業種混合のコラボレートの歴史は拓郎の偉業から始まる[289][290][291][292][293]。この後、"日本初のアーティストによる"レコード会社フォーライフを立ち上げ、原田真二をプロデュースして、ロックのアイドル化、メジャー化にも貢献[294][295][296]。, ホリプロで井上陽水の初期のマネージメントを担当した川瀬泰雄は『拓郎らはしゃべりが上手で、コンサートの半分はしゃべりで客をわかせたりしていた。ところが陽水はぜんぜん受けず。たまにコンサートでポツリと受ける言葉をメモして陽水に渡した。ともかく客に受けることで必死だった』と話している[348]。, 拓郎の酒癖の悪さは有名で、上京当時は酔って週に1度はケンカをやったという[232]。, 以上、2度の結婚式の披露宴の司会は、いずれも山本コウタローと南こうせつのコンビが務めた[369]。, 浅川マキは著書『幻の男たち』の中で拓郎とのエピソードを書いている。1980年代半ばに雑誌で拓郎の「女ともだち」を拓郎自身が写真で撮るという企画があって、拓郎は田村と共に浅川の部屋を訪れ浅川を撮った。撮影後、拓郎が「前にこの部屋に来た、新宿で一緒に飲んだ帰りだった」といった。しかしこれは拓郎の記憶違いで、拓郎が来たのは拓郎の深夜放送にゲストで呼ばれた日の後、と書いている[378]。, 清志郎がテレビで奥田民生と初共演した時には、「オマエ広島(出身)かぁ 何だ、それで吉田拓郎に顔が似てるのかぁ〜」とムチャ言ったこともあった。, 2012年8月13日の「坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」で、坂崎から「拓郎さん、日本ではどんな音楽が好きなんですか?」という話題が出た中で、「みんな意外なところでね、俺、山下達郎とか好きなんだよ、あいつのボーカルが好きなんだよ、達郎の声とか(彼の)奥さんの竹内まりやの声は、かなり俺(胸に)クるんだな。あそこの夫婦のファンだね。これ、このラジオで本邦初公開だけど」と告白した。この発言がきっかけとなり、同年10月1日の同番組で、お互いソロアーティストとしての立場で初共演を果たした[457][458]。この放送で山下は"私的吉田拓郎史"を言わせてもらえば2時間は喋れると話し、18歳の時、東長崎のレコード店でアルバイトをしていた時、ちょうど拓郎のアルバム『元気です。』(1972年)が出た頃で、その『元気です。』とカーペンターズの「ア・ソング・フォー・ユー」の2枚が飛ぶように売れて10枚問屋に注文しても1枚しか来なかったという思い出や、前述の「風の街」のレコーディングで拓郎に歌唱指導された話、その時のしこりで1975年のつま恋にもコーラスとして参加を要請されたが「絶対イヤ」と断った話などをした。拓郎の方はそんな話はまったく知らず、山下を認識したのは1980年代になってから、毎年行くハワイで「LOVELAND, ISLAND」(1982年)を聴いて、こんなウェストコースト風サウンドを歌いこなせる日本人ボーカリストがいるのか、と感激したのが最初と話した[457]。ちなみに、この日の出会いがきっかけとなり、番組後には互いのメルアド交換をし、夫妻ともどもメールするほどの仲になっている[459]。, 1.イメージの詩 - 2.青春の詩 - 3.今日までそして明日から - 4.結婚しようよ - 5.旅の宿 - 6.おきざりにした悲しみは - 7.伽草子 - 8.金曜日の朝 - 9.シンシア(よしだたくろう・かまやつひろし) - 10.となりの町のお嬢さん - 11.明日に向って走れ - 12.たえこMY LOVE - 13.もうすぐ帰るよ - 14.カンパリソーダとフライドポテト - 15.舞姫 - 16.流星 - 17.春を待つ手紙 - 18.あの娘といい気分 - 19.いつか夜の雨が - 20.元気です - 21.サマーピープル - 22.サマータイムブルースが聴こえる - 23.唇をかみしめて - 24.あいつの部屋には男がいる - 25.I'm In Love - 26.旧友再会フォーエバーヤング - 27.ふざけんなよ - 28.風をみたか - 29.ジャスト・ア・RONIN(吉田拓郎・加藤和彦) - 30.すなおになれば - 31.夏休み - 32.落陽 - 33.俺を許してくれ - 34.男達の詩 - 35.友あり - 36.吉田町の唄 - 37.たどり着いたらいつも雨降り - 38.純情(吉田拓郎 & 加藤和彦) - 39.恩師よ/まだ見ぬ朝 - 40.決断の時 - 41.マスターの独り言 - 42.君のスピードで/とんと御無沙汰 - 43.遥かなる - 44.心の破片 - 45.蒼い夏 - 46.気持ちだよ - 47.トワイライト - 48.いくつになっても happy birthday - 49.家へ帰ろう/襟裳岬 - 50.純/流星2003/ホームラン・ブギ2003, 1.よしだたくろう 青春の詩 - 2.よしだたくろう 人間なんて - 3.元気です。 - 4.伽草子 - 5.今はまだ人生を語らず - 6.明日に向って走れ - 7.ぷらいべえと - 8.大いなる人 - 9.ローリング30 - 10.Shangri-La - 11.アジアの片隅で - 12.無人島で…。 - 13.マラソン - 14.情熱 - 15.FOREVER YOUNG - 16.俺が愛した馬鹿 - 17.サマルカンド・ブルー - 18.MUCH BETTER - 19.ひまわり - 20.176.5 - 21.detente - 22.吉田町の唄 - 23.Long time no see - 24.感度良好 波高し - 25.みんな大好き(吉田拓郎とLOVE2 ALL STARS) - 26.Hawaiian Rhapsody - 27.こんにちわ - 28.Oldies - 29.月夜のカヌー - 30.午前中に… - 31.午後の天気 - 32.AGAIN, よしだたくろう1971〜1975 - 吉田拓郎全集/歌草子 - よしだたくろう ベスト・セレクション - GOLDEN J-POP/THE BEST 吉田拓郎 ONE AND ONLY±1 - LIKE A ROLLING STONE 1970〜1974 - GOLDEN☆BEST よしだたくろう ひきがたり - 吉田拓郎 スーパー・ベスト - GOLDEN☆BEST 吉田拓郎 〜Words&Melodies〜, ONLY YOU - 吉田拓郎ベスト60 - The 吉田拓郎 - Songs - LIFE - THE BEST PENNY LANE, GOLDEN☆BEST 吉田拓郎 THE LIVE BEST - 拓郎ヒストリー - ONLY YOU + Single Collection, 1.よしだたくろう オン・ステージ ともだち - 2.よしだたくろう オン・ステージ 第二集 - 3.よしだたくろう LIVE'73 - 4.TAKURO TOUR 1979 - 5.TAKURO TOUR 1979 Vol.2 落陽 - 6.王様達のハイキング IN BUDOKAN - 7.吉田拓郎 ONE LAST NIGHT IN つま恋 - 8.COMPLETE TAKURO TOUR 1979 - 9.TRAVELLIN' MAN LIVE AT NHK STUDIO 101 - 10.豊かなる一日 - 11.一瞬の夏 - 12.18時開演〜TAKURO YOSHIDA LIVE at TOKYO INTERNATIONAL FORUM〜 - 13.吉田拓郎ライブ コンサート・イン・つま恋'75, Takuro Premium 1971 - 1975 - TAKURO YOSHIDA IN THE BOX, コンサート・イン・つま恋 1975 - '79 篠島アイランドコンサート - '82 日本武道館コンサート 王様達のハイキング - '85 ONE LAST NIGHT in つま恋 - '89 TAKURO YOSHIDA IN BIG EGG - '90 日本武道館コンサート - '93 TRAVELIN' MAN LIVE at NHK STUDIO 101 - 1996年、秋 - 感度良好ナイト in 武道館 - 吉田拓郎 LIVE 〜全部だきしめて〜 - 101st Live 02.10.30 - TAKURO & his BIG GROUP with SEO 2005 Live & His RARE Films - Forever Young Concert in つま恋 2006 (吉田拓郎・かぐや姫) - 歩道橋の上で COUNTRY BACK STAGE DOCUMENT - 吉田拓郎 LIVE 2012 - 吉田拓郎 LIVE 2014 - 吉田拓郎 LIVE 2016, 阿木燿子 - 阿久悠 - 梓みちよ - 石川鷹彦 - 石野真子 - 泉谷しげる - 伊勢正三 - 井上陽水 - 忌野清志郎 - 岡本おさみ - 小田和正 - 織田哲郎 - 小倉博和 - 小原礼 - 加藤和彦 - かまやつひろし - 鈴木茂 - 石原信一 - 康珍化 - 喜多条忠 - 後藤次利 - 後藤由多加 - 小室等 - 近藤真彦 - 斎藤ノヴ - 堺正章 - 坂崎幸之助 - 篠原ともえ - 杉田二郎 - 瀬尾一三 - 高中正義 - 高見沢俊彦 - 武田鉄矢 - 武部聡志 - 常富喜雄 - トータス松本 - 中島みゆき - 中西康晴 - 長渕剛 - 中村雅俊 - 浜田省吾 - 松本隆 - 松任谷正隆 - 松任谷由実 - 南沙織 - 南こうせつ - 森進一 - 森山良子 - 安井かずみ - 柳田ヒロ - 山田パンダ - 山本コウタロー - 由紀さおり - 吉田建 - 愛奴 - THE ALFEE - オフコース - かぐや姫 - キャンディーズ - KinKi Kids - 猫 - ザ・モップス - LOVE LOVE ALL STARS - 新六文銭 - 四角佳子 - 浅田美代子 - 森下愛子, 作品 - 広島フォーク村 - エレックレコード - ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本) - フォーライフミュージックエンタテイメント - インペリアルレコード (日本) - avex trax - 吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋 - 国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW - 吉田拓郎 & かぐや姫 Concert in つま恋 2006, 赤い風船 - ひとりっ子甘えっ子 - わたしの宵待草 - 恋は真珠いろ - しあわせの一番星 - 虹の架け橋 - じゃあまたね - 想い出のカフェテラス - 少女恋唄 - この髪にこの胸に - デュエット替え唄メドレー(嘉門達夫とのコラボ) - いっしょにねっ, 赤い風船 - 美代子のおくりもの - 浅田美代子オリジナルファーストアルバム - しあわせの一番星/恋は真珠いろ - 美代子の新しい世界 - この髪にこの胸に, ギフト・パック 浅田美代子 - 浅田美代子ヒット全曲集(1974) - 浅田美代子デラックス - 美代子からあなたへ - Best of Best 浅田美代子のすべて - THE BEST / 浅田美代子, 浅田美代子ベスト・コレクション - GOLDEN J-POP/THE BEST 浅田美代子 - DREAM PRICE 1000 浅田美代子 - GOLDEN☆BEST 浅田美代子, 時間ですよ - 寺内貫太郎一家 - あこがれ共同隊 - 花吹雪はしご一家 - 家と女房と男の名誉 - 101回目のプロポーズ - 女の言い分 - 恋も2度目なら - さくら, しあわせの一番星 - 陽のあたる坂道 - 釣りバカ日誌シリーズ - 大夜逃 夜逃げ屋本舗3 - 走れ!イチロー - ツナグ, さんまのSUPERからくりTV - さんまnoひろバァー - さんま・玉緒・美代子のいきあたりばったり珍道中 - メレンゲの気持ち, ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本) - テアトル・ド・ポッシュ - 芸映, 客が“帰れコール”を浴びせたり、ステージに上がってわめいたりするのが1970年代に流行したのは1971年8月の, 吉田拓郎のそれまでになかった、話し言葉のような歌が若者たちの心をとらえた(テレビ仕掛人たちの興亡、1990年、, 当時はシングルは売れても、アルバムは3千〜5千枚売れたらいい方であった(ラヴ・ジェネレーション1966-1979 新版 日本ロック&フォークアルバム大全、, 1970年代初頭ではまだ、テレビCMの世界で自らのサウンドスタイルを崩すことなく音楽制作を聞かせることができたのは、拓郎と, てぃーんずぶるーす6位、キャンディ10位、シャドーボクサー14位(期日不明)。(青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p.213、日本のベストアルバム―フォーク&ロックの25年―、1992年、田家秀樹監修、シンコー・ミュージック、p.92)。, 当初は泉谷が1人で募金ライブを敢行、これに拓郎が「スーパーバンド」という概念を加え、その後泉谷と拓郎、小田が軸となって「スーパーバンド」としてチャリティコンサートを行う(アサヒ芸能、2009年8月20日号、p.97)。, ペニーレインは原宿にあった伝説のバー。当時、ユイ音楽工房社長だった後藤由多加が飲食店事業の一環として1974年に立ち上げた。拓郎の楽曲「ペニーレインでバーボン」で有名になり、修学旅行のコースにもなった"1970年代原宿の象徴"ともいわれる名店(, 吉田拓郎・牧瀬里穂・ラサール石井のトキメキ心の故郷三人旅故郷・鹿児島県で思い出の地を巡る(日本テレビ、1997年11月9日), 坂根 嘉弘「朝鮮総督府官吏・吉田正廣の経歴と業績」上巻、「経済科学研究」21号、広島修道大学、2018年2月、99-100頁, 夢のあがり―ニューミュージックの仕掛人たち―1983年4月、富澤一誠著、音楽之友社、pp.41-42, 51-52。, イエスタディ '60's - '80's ―音楽記者の取材ノートから―、1989年、永井晶子、, 針金を曲げてハーモニカ・ホルダーを作り、首にかけるスタイルも日本では拓郎が最初といわれる(『, ステージに譜面台を持ち出したのも、ニューミュージック界では拓郎が最初といわれる(あいつのクシャミ、1980年、富澤一誠、, ラヴ・ジェネレーション1966-1979 新版 日本ロック&フォークアルバム大全、, 1973年12月の対談(小室等対談集、1975年、小室等、財団法人ヤマハ音楽振興会、p.18)。, Go!Go!GUITAR特別編集『初めて弾いたこの一曲』ヤマハミュージックメディア、2009年、, 木村ユタカ編著『俺たちの1000枚 10 Artists × 100 Albums』、シンコーミュージック・エンタテイメント、2016年、, 『僕の音楽物語 1972-2011 名もなきミュージシャンの手帳が語る日本ポップス興亡史』、平野肇、, 渡辺プロダクション社史「抱えきれない夢〜渡辺プログループ40年史〜」、1999年、「渡辺プロ・グループ四〇年史」編纂委員会、p.345, 消費社会の広告と音楽、林進・小川博司・吉井篤子、有斐閣、1984年、pp.40-41, ヤング・ギター・クロニクル, vol.