オリンピックの歴史や東京オリンピック(1964年)の特集、そのほか今も語り継がれるエピソードなどオリンピックにまつわる様々なトピックをまとめました。 日本オリンピック委員会(joc)公式サイト 東京オリンピックは、大成功のうちに終了した。 © 2020 JAPANESE OLYMPIC COMMITTEE All Rights Reserved. 東京オリンピックは、3つ存在する。1940年の大会、1964年の大会、そして2020年の大会だ。このうち、1964年のそれは過剰に理想化されている。 日中戦争の影響で返上した1940年の大会は戦時下を象徴し、目下様々なトラブルを引き起こしつつある2020年の大会は「失われた20余年」を象徴する。この2つの東京オリンピックはいわば「暗黒時代」を背負っており、否定的なイメージを免れない。 これに対し、1964年の大会は高度成長期を象徴し、肯定的なイメージが強い。 当時の日本は、戦後復興を成し … しかし、オリンピック開催の真の意義は、大会後にどのようなものを残すことができるかにあるのだ。, 東京オリンピックは日本のスポーツ界に有史以来の大きなインパクトを与えました。まず、金メダル16個を含む計29個のメダルを獲得し、国際競技力のレベルで、いくつもの競技が「世界に追いつけ、追い越せ」を実現し、あるいは実現可能な手応えをつかみました。, オリンピックの翌年、サッカーが先鞭をつけた実業団による日本リーグは、バレーボール、バスケットボールなど多くの競技に広がり、トップレベルの戦力強化に貢献しました。, 他方、東京オリンピックのコーチや選手だった人々が、同じくオリンピックの翌年から始めた水泳、体操などを中心とするスポーツのクラブ(スクール、教室)は、たちまち全国に波及し、幼児から家庭の主婦、中高年まで、幅広い人々が参加するようになりました。, 1970年代初頭に世界的になったスポーツ・フォア・オール(国民皆スポーツ参加)運動の「日本版」は、東京オリンピックの開催をきっかけとして生まれたのです。歴史に「…たら」「…れば」は禁物といわれますが、もし、あの時期に東京オリンピックがなかったら、わが国のオリンピック・スポーツの発展は今日と同じではなかっただろうと思います。, 講道館柔道の開祖・嘉納治五郎のIOC委員就任(1909年=明治42年)によって始まった日本のオリンピック運動は、1932年のロサンゼルス大会(金メダル7、銀メダル7、銅メダル4)と、続く1936年のベルリン大会(金メダル6、銀メダル4、銅メダル10)での水泳・陸上競技を中心とした活躍で、まずは世界の仲間入りをし、そして東京が1940年の第12回オリンピック開催権を得ながら、日中戦争の進展など、国際情勢の悪化によって、これを返上せざるを得なかったことはご承知の通りです。, 続く太平洋戦争で欧米主要国を敵に回したことから、日本スポーツ界はIOCをはじめ、すべての国際競技連盟から除名または資格停止されました。再び仲間入りできたのは、いずれも戦後4、5年以上経ってからであり、このため戦後初のオリンピックである1948年(昭和23年)のロンドン大会には参加できずじまいでした。, こうした事情で、日本は戦前戦後を通じて10年余もスポーツ国際交流に空白をつくりました。そこで、この立ち後れを解消し、再び世界に雄飛する起爆剤として、日本体育協会(体協。日本オリンピック委員会=JOCは、当時体協の一組織)は、東京都の同意を得て、今度こそ東京オリンピックの開催を実現しようと考えました。, そして、日本が復帰できた戦後2度目のオリンピック、1952年(昭和27年)7月の第15回ヘルシンキ大会に先立ち、1960年の第17回大会開催地に立候補。これは時期尚早で根回しも十分ではなく、失敗に終りましたが、続いて1958年(昭和33年)、今度は1964年の第18回大会に立候補、翌年5月にミュンヘンにて開催されたIOC総会で首尾よく宿願を達成しました。. オリンピックの閉会式は通常日曜日に行われるが、東京大会は15日間の日程であったので最終日が土曜日となった 東京五輪をひかえ、訪日外国人観光客にむけたインバウンドビジネスがさかんです。今でこそ日本人のマナーはいいと言われていますが、昭和の頃は「旅の恥はかき捨て」といって、海外旅行をする日本人のマナーは良く… 1964年東京オリンピック(1964ねんとうきょうオリンピック)は、1964年(昭和39年)10月10日(後の体育の日)から10月24日までの15日間、日本の東京都で開かれたオリンピック競技大会。. ようこそジセダイへ!混沌と変革に満ちたこの時代、あなたは、何と闘いますか?ジセダイとは?, 東京オリンピックは、3つ存在する。1940年の大会、1964年の大会、そして2020年の大会だ。このうち、1964年のそれは過剰に理想化されている。  日中戦争の影響で返上した1940年の大会は戦時下を象徴し、目下様々なトラブルを引き起こしつつある2020年の大会は「失われた20余年」を象徴する。この2つの東京オリンピックはいわば「暗黒時代」を背負っており、否定的なイメージを免れない。  これに対し、1964年の大会は高度成長期を象徴し、肯定的なイメージが強い。  当時の日本は、戦後復興を成し遂げ、新幹線や首都高を建設し、先進国の仲間入りを果たした。当時の日本人はみな夢や目標を持って、輝かしい明日に向かって努力していた。われわれはいま一度、2020年の東京オリンピックの実現を通じて、あの「黄金時代」を取り戻さなければならない。1964年の東京オリンピックは、このようなイデオロギーさえ今日まとっているのである。  思えば、高度成長期ほど肯定されやすい時代も珍しい。一昔前の「三丁目の夕日」ブームや、昨今の田中角栄ブームなどもその一例だろう。あるいは、リベラル派の「護憲平和主義」や、保守派の「専業主婦」賛美もまた、そうかもしれない。いずれも、高度成長期という特殊な時代に根を下ろした価値観だからだ。  とはいえ、1964年の東京オリンピックも、それが象徴する高度成長期も、そんなにすばらしいことばかりではなかった。その過剰な理想化は、戦時下の再評価などと同じく、われわれの目を曇らせ、社会を間違った方向に導くのではないだろうか。2020年の東京オリンピックを迎えるにあたって、神話化された1964年のイメージは解体されなければなるまい。, そのためには、前回の東京オリンピックの実態を知ることが重要である。1964年の大会は、用意周到に準備され、国民にも歓迎され、大いに盛り上がって成功したと思われている。だが、実際はそんな単純ではなかった。  そのことを象徴するのが、前年の1963年1月6日読売新聞朝刊に掲載された記事「試練の年63年 オリンピック 盛り上がらぬ世論 "責任体制"どうつくる」である。ここでは、きたるオリンピックの問題が4点に整理されている。, ①国民が、関係者まかせで無関心である ②組織委員会が、無責任で「半身不随」状態である ③関係者が、オリンピックに便乗して補助金や公共事業を乱発している ④関係者が、主役である選手を無視して独善的なプランを立てている, 驚くべきことに、1964年のオリンピックも、今日と同じような批判に晒されていたのだ。これは読売新聞だけではなく、各紙で見られた論調だった。  以上の4点のうち、国民の無関心は特に深刻だった。1964年1月にNHKが行った世論調査にも、国民の無関心ぶりが強く出ている。以下では、東京都区部の数字にしぼって見てみよう(日本放送協会放送世論調査所『東京オリンピック』)。  まず、「あなたが近頃どんなことにいちばん関心をもっていらっしゃいますか」という設問。これに対して「オリンピックへの関心」と答えたのは、たった「2.2%」にすぎなかった。「いちばん」の関心とはいえ、これはあまりに低い数字だ。  それ以外にも、都民の無関心を示す調査結果が並ぶ。「オリンピックは結構だが、わたしには別になんの関係もない」に賛成は「47.1%」。「東京オリンピックは、それぞれの関係者がなんとかやってくれるだろう。わたしたちがとやかくいうことはない」に賛成は「64.0%」。「オリンピックを開くのにたくさんの費用をかけるくらいなら、今の日本でしなければならないことはたくさんあるはずだ」に賛成は「58.9%」。  さらに、オリンピック募金への寄付は「61.6%」が行わず、オリンピック記念切手は「76.8%」が買わず、オリンピック記念メダルは「94.4%」が買わず、オリンピック開・閉会式の入場券への申し込みは「81.1%」がしなかったという。  同じ調査は、オリンピック開会直前の10月にも行われたが、ほとんど同じような結果が出ている。「オリンピックは結構だが、わたしには別になんの関係もない」にいたっては、賛成が「56.8%」と10ポイント近く増加。また「あなたご自身として、そのほかに(引用者註、「募金のほかに」の意)、今度のオリンピックになにか協力したいという気持ちをおもちですか」には、「42.2%」が「もたない」と回答している。  NHKは金沢市でも同様の調査を行っているが、数字に大きな違いはない。国民の多くは、少なくとも開会直前まで、オリンピックに相当無関心だったわけである。, 「首都美化はオリンピックの一種目」。東京都の美化運動ポスター。『第18回オリンピック競技大会 東京都報告書』より。, こうした国民のしらけムードを作った原因のひとつが、組織委員会の無責任体質だった。  組織委は、オリンピック招致成功後に設置される、準備運営団体である。実務的な組織であるため、当初そのメンバーは官僚中心で少数になるはずだった。  ところが、そこに横槍が入った。自民党が政治家を委員に入れろと要求したのである。社会党や、委員から除外されていた自治庁や郵政省などもこれに加勢した。独自の財源を持たない組織委は政界に弱く、たちまち寄せ集めの組織となってしまった。  この結果、1959年9月の発足時、組織委は22名の体制となった。その内訳は、政府2(文部大臣、総理府総務長官)、国会議員5(自民3、社会2)、東京都2(都知事、副知事)、学識経験者3、財界2、報道関係2、日本体育協会5、その他1。なお会長には、大蔵官僚出身で衆議院議員の津島寿一、事務局長には、朝日新聞出身で水泳指導者の田畑政治が就任した。  このような寄せ集めの組織委は決断力に欠け、様々な意見に左右された。準備計画の変更も頻発し、国内では「無責任」と批判され、国外では「どの決定が本当か」と顰蹙を買った。  さらに1962年5月オリンピック担当相に就任した川島正次郎とも対立し、ついに同年10月会長と事務局長が辞任に追い込まれた。この背景には、田畑事務局長に対する、川島五輪相の個人的な恨みがあったともいわれる(波多野勝『東京オリンピックへの遥かな道』)。  その後、事務局長は与謝野秀(外務官僚。与謝野晶子の息子)に決まったが、会長がなかなか決まらず、翌年2月になってようやく安川第五郎(日本原子力発電初代社長)に落ち着く有り様だった。つまり、開会の約2年前に、組織委トップの不在が続いたのである。  今日でも、2020年大会の組織委員会(会長・森喜朗、事務局長・武藤敏郎)をめぐって、同じように無責任体質が問題になっている。新国立競技場の問題などをめぐって、オリンピック担当大臣やスポーツを所管する文科省との責任のなすりつけ合いも起こっている。  一般には、森喜朗の不穏当な言動に注目が集まりがちだが、彼を辞めさせたところでどうにもなるまい。これは組織的な欠陥だからだ。責任ある体制にするためには、権限を一箇所に集中しなければならない。ところが、オリンピック利権に群がる組織や人間があまりに多いため、それができないのだ。  2020年大会の組織委は、構造的な欠陥をいまだ解消できていない。このままでは、1964年大会のときのように、開会が近づいて再び問題が生じるのではないだろうか。, 以上、国民の無関心と、組織委の無責任体質について見てきた。1964年の東京オリンピックの実態もなかなか悲惨だったのである。  もっとも、絶望する必要はない。ダメならダメで、それを前提にすればよい。どうせ国民は無関心で、組織委員会は無責任だ。1964年でそうなのだから、価値観が多様化した2020年ではなおのこと。そのなかでできることをやればいいのである。  避けるべきは、幻想の1964年にとらわれて、現在を批判することだ。「昔はすばらしかった、みんな熱心に参加していた。だから、国民は挙って参加せよ。ボランティアや募金にも応じよ。どうしてこんなに国民は無関心なのか? 現在の日本人の道徳は荒んでいる!」こんな風潮は絶対に避けなければならない。  1964年の幻想にとらわれずに、適当にまあまあのところで済ませること。それが2020年の東京オリンピックの現実的なあり方ではないだろうか。, ※なお、1964年と2020年の大会ではパラリンピックも開催された(る)が、本稿では紙幅の都合上割愛したことをお断りしておく。, 文筆家・近現代史研究者。1984年、大阪府生まれ。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院文学研究科中退。政治・戦争と文化芸術の関わりを主なテーマに、旺盛な執筆活動を行っている。単著に『日本の軍歌』『ふしぎな君が代』『大本営発表』(以上、幻冬舎新書)、『たのしいプロパガンダ』(イースト新書Q)などがある。. 1964年東京五輪. 歴史 一般的に東京オリンピック(とうきょうオリンピック)と呼称され、東京五輪と略称される。 【昔の東京五輪】昭和39年(1964)東京オリンピック雑学!海外の反応「日本すごい」 2020年に東京でオリンピックが開かれることで、改めて注目を浴びているのが1964年の「東京オリンピック」。どんな大会だったのかが垣間見れるエピソードを紹介。 1964年10月10日、東京で第18回オリンピック東京大会開会式が行われた。「オリンピック憲章」によると開会宣言は開催国の国家元首が行うことになっており、この大会ではブランデージIOC会長の要請により、昭和天皇が恭しく宣言した。陛下の入退場にあたっては当時の日本を代表する作曲家である黛敏郎の電子音楽が奏でられ、新旧の組み合わせに、時代の斬新さが現れていた。, この日実況中継をしたアナウンサーは「世界中の青空を集めたような快晴」であると見事な表現で描写した。前夜の激しい雨が嘘だったかのようなこの秋晴れが、その後15日間の、オリンピック史上、特筆されるような大会の成功を導いた大きな要素になったということをわれわれ関係者はその後、末永く語り合ったものだ。, 米軍による空爆や艦砲射撃で全国のほとんどの主要都市が廃墟となってからわずか9年で日本は1960年のオリンピック招致に立候補し(この時は落選)、次の1964年大会を射止め、敗戦から19年目にして94もの国と地域の参加者を得、実際にオリンピック大会を開催した。時のIOC会長ブランデージ氏をして、「見事に最高級のオリンピック大会を開催した」とまで言わしめたのであった。, 東京五輪の施設を視察に訪れたアベリー・ブランテージIOC会長(左から3番目)(時事), あれから約半世紀を経た2013年9月、日本は2020年の東京オリンピック招致決定に沸いた。しかし、招致決定から1年を経た今日、遺憾ながら、あの興奮はどこに行ったかというほど、6年後のオリンピックに対する一般の関心は薄く、準備はようやく緒についたという程度に過ぎない。その大きな原因は、組織委員会が今もってこのオリンピックの明確なコンセプトや発信すべき哲学をまとめ切れていないからであり、夢もアイデアも十分結集されていないからであると私は見る。, 50年前には日本の「戦後の復興」や「科学技術先進国」であることを世界に示すというコンセプトがあったが、私自身は次期東京オリンピックの機会を「平和」「調和」「協力」を前面に出し、この機会を「世界に発信する日本」になればと期待している。, 東京が最初にオリンピック招致に成功したのは1936年、ベルリン・オリンピック開催時に行われたIOC総会で、4年後、1940年に第12回オリンピック競技会の開催について票決したときであり、38年のカイロでの総会ではこれに加えて、同年に札幌で冬季オリンピック競技大会を開催することも決せられた。夏冬ともアジアで初めて、有色人種の国では初めての開催となるはずだった。, しかし、日本は既に大陸での戦争に深入りし、鉄鋼をはじめ主要な軍需物資が不足しがちという中で、まず軍が「馬術競技に騎兵将校を派遣できない」と言い始めた。当時、馬術競技は各国の騎兵将校間の競技であり、女子も単なる馬乗りが好きな者も排除されていた。したがって、これは馬術競技を日本では開催できないということに他ならない。最終的には38年秋、所管の厚生省から開催都市である東京市に返上すべきとの通達が出され、東京・札幌の両大会は招致で苦労を重ねたスポーツ関係者が涙を飲む中で返上された。, 代替開催地とされたヘルシンキ大会も「冬戦争」(第一次ソ連・フィンランド戦争)のため、流会となり、44年に予定されていたロンドン大会も第2次世界大戦のさなかであり、開催できなかった。, 話は前後するが、1940年大会の準備状況を顧みると、われわれの先輩はそれなりに夢を描いていたことが判る。, ベルリン・オリンピック大会では五輪史上初めて、聖火(Olympic flame)リレーが行われた。これはカール・ディエム同大会組織委事務総長の発想でギリシャのオリンピアから運ぶ7カ国を経て各国のランナーによって聖火が引き継がれ、ベルリンまで搬送されたものだ。当時の日本では、これと同様にオリンピアからユーラシア大陸を横断しての陸送を発想し、それなりに検討していたのである。しかし、当時は通信、道路、車両など諸事情が今とは比較にならぬほど未発達であり劣悪だったし、ソ連にはNOCもなく、中国とは戦火を交えている状況であって、これはあまりに現実離れした夢物語に過ぎなかった。, ベルリン大会から12年を経て戦後、1948年、サンモリッツ(スイス)での冬季大会とロンドンでの大会でオリンピックは復活した。しかし、日独両国はこの2大会には参加を認められなかった。スポーツに国境もあり、政治もあるという典型的な先例である。両国の復帰は52年2月のオスロ冬季大会と同年夏のヘルシンキ大会からであり、ベルリン・オリンピック以来実に16年ぶりにオリンピックに参加できたのであった。, 1964年の東京オリンピックを進めた中心人物は田畑政治(たばた・まさじ)。日本水連の会長であり、日本のスポーツ界にこの人ありと言われた優れたリーダーである。48年のロンドン大会に招かれないと知ると、同じ日に東京の神宮プール、水泳の日本選手権大会を開催し、古橋・橋爪らにロンドン五輪の優勝タイムを大きく上回る高成績を挙げさせるなど、努力と工夫と忍耐の人だった。, 東京大会には94の国と地域の代表が参集した。オリンピック競技の盛んな欧米から見れば、極東という、文字通りの遠隔地に位置する日本での開催だったが、この大会を着実に成功させたことで日本は、戦後19年目にして、戦禍からの復興を世界に示すことができた。開会式の見事な進行、各競技の滞りない実施、選手村の管理と運営のすばらしさ、社会機能の効率と安全は各国からの選手・役員、報道人を驚嘆せしめた。また、それまでに日本が保有していた目立ったインフラはせいぜい東京タワーという333mという、当時、世界一の高さのテレビ塔くらいのものであったが、各国の支援を受けつつ、世界初の高速鉄道である東海道新幹線、首都高速道路、世界の建築史に名を残すような屋内外の競技場を建設・整備し、さらに人工衛星により世界で初めて、オリンピックの同時テレビ中継に成功した。これは電子化された計測と記録などとともに、「日本の技術力」を証明するものであった。そして日本はこのオリンピックを機会に、右肩上がりの高度成長を加速させた。, 中華民国(台湾)と中華人民共和国(中国)のオリンピック参加は常に大きな課題となってきた。ヘルシンキ大会(1952)直前のIOC総会で双方の参加が認められたが、台湾がこれを不満としてボイコットしたのが始まり。東京大会では開会式の入場行進にあたり、「TAIWAN 中華民国」という今になってみれば摩訶不思議のような表記のプラカードで台湾のみが参加した。このため中国が不参加、北ベトナムも不参加だった。, 五輪開催に先立ち、スカルノ・インドネシア大統領が池田勇人首相と会談=1964年1月、東京都内(時事), 加えて、1962年開催の第4回アジア競技大会にインドネシアのスカルノ大統領が台湾とイスラエルを招かないことから始まったIOCとの混乱で、日本は東京オリンピック組織委の会長と事務総長の首を差し出し、2年後の東京大会取り消しを防がなければならなかった。また、GANEFO(新興国競技大会)参加選手への資格停止処分をめぐり、インドネシアは東京まで選手団を送り込みながら、IOCが東京大会への参加を認めず、帰国させられた。北朝鮮選手団も万景峰号で来日していたが、女子800mの記録保持者で、金メダル確実と言われた辛金丹選手と、先に脱北していた父親とのわずか15分間の対面という悲話を残して、同様の結末となった。, 冷戦真っ最中の時代でもあり、東京大会の開催期間は内外情勢が誠に多端だった。開会式から7日目、中国は初の核実験を行った。これは古代オリンピック以来、平和を掲げるオリンピック精神を無視するものであり、「アジア初」のオリンピックを誹謗するものであった。各国からの選手・役員、報道人が選手村やプレスセンターで驚きと落胆の声を挙げていたのが忘れられない。, ソ連は大選手団を派遣したが、同時に日本周辺空域に何度か戦闘機を周回させ、航空自衛隊はその都度スクランブルで対応した。そうこうしているうちにフルシチョフ第一書記が更迭された。, 「ベルリンの壁」の設置直後ではあったが、東西ドイツは統一チームで参加した。組織委では両国に共通な黒赤金の横三色旗をベースとし中央に白で五輪を抜いたものを用意した。当時、東ドイツの国旗はその中央にディバィダー、ハンマー、小麦から成る国章、西ドイツはワイマール時代と同じその横三色旗のままという国旗であった。, 日本でも池田勇人首相が、オリンピックの閉会式の翌日、病気のため辞任した。後任の佐藤栄作首相は日韓国交復興、小笠原・沖縄の復帰を果たし、1972年にノーベル平和賞を授与された。このことは、率直に言って日本人には意外感があった。しかし、これは戦後一貫して非核平和国家としての日本の安定な社会を日本人全体が推進してきたことに与えられた賞と納得し、その中には見事な東京オリンピックでの発信も大きな業績であると私は勝手に合点したのだった。, 1941年生まれの私は物心ついて以来、同一世代で、日本が最大被援助国と最大援助国となるという両方を経験した。国際社会においてこれは稀有なことであり、その経験をスポーツや文化のみならず、世界の安定と発展のために活かして行かねばならない責務が日本にはあると信じる。, 2020年までに残された時間は決して十分なものではないが、その成否は国際情勢の安定が第一である。しかし、現実の世界はウクライナ、シリア、イラクなど各地で戦火が絶えない。オリンピックが単なる「大きな運動会」ではなく、世界の平和と安定に大きく寄与するきっかけとなるものであってほしいと祈念する。, タイトル写真=東京五輪の開会式。大観衆が拍手をする中、日の丸を先頭に入場する日本選手団=国立競技場、1964年10月10日(読売新聞/アフロ), 東京