柳生宗矩の求めに応じ、剣禅一味(剣禅一如)の境地を説いた。

柳生宗矩は1571年出生。 同年に生まれた人には、伊達政宗の遣欧使節を率いた支倉常長がいます。 その2年後には織田信長が足利義昭を追放し、室町幕府が滅びたという時代でした。. 柳生の大太刀(やぎゅうのおおだち) 大太刀 銘 永則 象嵌銘表「吹毛影寒天魔膽落別々珊瑚枝々看月」 象嵌銘裏「大和国添上郡神戸荘住柳生伊豫守平利厳所持之」 刃長4尺7寸8分(約1.45m) 徳川美術館所蔵 出雲守永則は室町時代の出雲の刀工。もと備前の吉井で鍛冶を行った刀工で、のち出雲 「宮本武蔵体験クエスト」冒頭にて彼女を襲撃した人物。 父は柳生新陰流を創始した達人

しかし、苦笑いしながら「あれは幼い頃より強かった。稽古をつけるのも一苦労であったよ」とも述べており、親子仲はさほど悪くなかった様子。 同じく戦国の日本にて名をはせた英霊。

この境地を記した『不動智神妙録』は、禅を以て武道の極意を説いた最初の書物であり、武術から武道への流れを開く端緒のひとつになった。 術理とは合理であり、すなわち剣きわまれば、自ずと無駄なくすべてが叶う───。 鍔 現代鍔(別注可能) 刀装具 刀掛け・バッグ 小物類 日本刀関連書籍 銃・鎧等 兜の置物. ※三代将軍・家光が宗矩を呼ぶ際の愛称は「柳但(りゅうたん)」であったと記録されている。柳生と但馬から一文字ずつを取っての愛称である。, 『Fate/Grand Order』に登場するセイバーのサーヴァント。レアリティは☆4。 両者それぞれの幕間で共演しており、時おり剣の手習いをしている事が窺える。 『閻魔亭繁盛記』では、酔って『恋はドラクル』を歌って踊った荊軻に合わせノリノリで手拍子をしていた。 江戸時代初期、先の太閤検地による所領没収で、浪人の身にまで落ちぶれていた柳生家の地位を一代で一万二千五百石の大名にまで押し上げてみせたからには、清廉潔白なだけでは有り得ないと考えられたのだろう。

無論、これらは後世の憶測や俗説、創作に過ぎず、宗矩が陰謀家であったという確たる証拠は無い。だが、宗矩が時代の趨勢を見抜くことに長けた文武両道の傑物であったことだけは確かである。, 史上初の敏捷A++保有者。 本格的な参戦となる『屍山血河舞台 下総国』で登場した時でも、サーヴァントではない生きた人間の身であったにも関わらず、並の怪異ならば難無く斬り伏せてしまうほどの実力者であった。 関ヶ原の戦いでは前哨戦である会津征伐に参戦し大功をたて、豊臣政権時代に没収されていた旧領・大和柳生庄2000石を取り戻している(宗厳はまだ健在だったが、この領地は宗矩が受け取っている)。 柳生 宗矩(やぎゅう むねのり)は、江戸時代初期の武将、大名、剣術家。徳川将軍家の兵法指南役。大和柳生藩初代藩主。剣術の面では将軍家御流儀としての柳生新陰流(江戸柳生)の地位を確立した。, 元亀2年(1571年)大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)に生まれる[1]。父は柳生庄の領主で上泉信綱から新陰流の印可状を伝えられた剣術家でもある柳生宗厳(石舟斎)。母は奥原助豊の娘(於鍋、または春桃御前とも)。兄に厳勝、宗章等がおり、宗矩は兄達と共に父の下で兵法を学んだとされる。, 若年時の行動は記録にないが、父の代に先祖代々の所領が没収されたために浪人となり、仕官の口を求めて 豊臣秀吉の小田原征伐で陣借りをしていたとする話が伝わっている[注釈 1]。文禄3年(1594年)5月、京都郊外の紫竹村において、父・宗厳が黒田長政の仲介により徳川家康に招かれて無刀取りを披露した際に[3]、父と共に家康に謁見し、父の推挙を受けて200石で家康に仕えることとなる[4][3]。, 豊臣秀吉の死後、家康と石田三成達の対立が深まる中、慶長5年(1600年)に家康が上杉景勝討伐のために会津に向けて出陣すると、宗矩もこれに従軍する(会津征伐)。その道中、下野国小山に至って三成ら西軍が挙兵した知らせを受けると、家康の命により柳生庄に戻り、筒井氏や大和の豪族と協力して西軍の後方牽制を行う。同年9月13日、無事工作を終えて家康の元に戻り[5]、続く関ヶ原の本戦では本陣で参加した。戦後これらの功績によって、父の代で失領した大和柳生庄2,000石を取り戻すことに成功する。翌慶長6年(1601年)には後の2代将軍・徳川秀忠の兵法(剣術)指南役となり、同年9月11日に1,000石加増、合わせて3,000石の大身旗本となった[6][7][1], 慶長20年(1615年)の大坂の陣では将軍・秀忠のもとで従軍して徳川軍の案内役を務め[8]、秀忠の元に迫った豊臣方の武者7人(人数に異同あり)を瞬く間に倒したという[注釈 2]。 曰く、各地の大名に自らの息がかかった高弟を指南役として送り込むことで独自の情報網を築き上げ、幕府の汚れ仕事を秘密裏に処理する闇のフィクサーだったのだと。 イベント『徳川廻天迷宮大奥』では、舞台がちょうど彼が仕えていた当時の江戸城ということもあり、メインキャラの一人として活躍する。 所謂 剣豪 と称された人物としては、 史上只一人と言える大名の地位まで上り詰めた存在 でした。.

大和国(奈良県)出身。戦国時代末期の元亀2年(1571年)に誕生。

敵方である石田三成の軍師・島左近とは交友の仲であり、家康は西軍攻略のために宗矩を左近に送ったとも言われる。

他にも舞踊、とりわけ能を好んだ宗矩だが「他人の家に押しかけて踊る」「城内で倒れるまで踊りつづけ、休んで回復したらすぐ登城してまた踊り始めた(※当時72歳)」などの無法なまでの能狂いっぷりについても忠告を受けている。

柳生宗矩 (やぎゅうむねのり)は、徳川将軍家の兵法指南役を務め、大和柳生藩初代藩主となった人物です。. 柳生三厳(柳生十兵衛):嫡男 彼女の初登場クエストや異界の下総で、少なくない因縁を作った女剣豪。しかしカルデアに召喚された正史の彼は、それら異分史の記憶を持ち合わせてはいない。 秀忠及び家光が剣術師範として心酔したことや、現在に残る著書「兵法家伝書」に見られる剣禅一如・活人剣などの高邁な理想から剣聖として扱われることが多く、第9回NHK大河ドラマである「春の坂道」では主人公を務めている。 沢庵宗彭 ちなみに、宗矩はその時初めて剣をふるい人を殺したと伝えられる。 ディルムッド・オディナ ……かと、思われたが、その後宗矩が息子の平四郎と家臣を引き取る。その際、せめてもの報いと、宗矩は坂崎家の家紋を使い続け、事実上の滅亡を凌いだ。 柳生家は新陰流を「活人剣」と呼び、剣は人を斬るものではなく、悪を斬るためのものという信念を持っていた。なので、宗矩が人を斬ったのも上記の大坂の陣が最初で最後であったとされる。 曰く、柳生の剣を心身鍛錬の思想としてまとめ上げたのは、その後の太平の世では実戦的剣術は無用の物となることをいち早く察知し、天下人に取り入って生き残りを図るためだったのだと。 幕府から怪異討伐の公儀を受け島原の乱を平定した五百余名の部下を引き連れ下総国に参上した。 その時左近は「殿は決断力の遅いお方でね、家康を簡単に討てただろうに今も思い留まってる。殿に東軍に下った数多の将と仲直りしたらどうだ?と言っても、『そんな卑怯な真似は出来ない』って一向に聞いてくれない。悪いが俺は殿を裏切れない。仲の良いお前さんでも開く口はない。」(現代語訳)

先読みに長け、島原の乱の拡大をいち早く見抜いていたとも語られる。 彼自身も新陰流を修めた剣豪とされ、徳川家康に招かれ「無刀取り」を披露した父・宗厳に同行したことが縁となり、家康に仕え徳川家の剣術指南役として江戸柳生新陰流を広めたとされる。



武蔵をして「弱い者いじめ」と言わしめるほどの剣士であり、既に剣聖に近い域に達してるとも言われる。 重度の愛煙家であったとされる宗矩だが、ある時沢庵和尚に「お前、煙から離れなさいよ」(現代語訳)と言われた際、数メートルの長いキセルでたばこを吸い始め「離れたぞ」と答え、和尚を呆れさせたという。 関ヶ原の後は徳川秀忠の息子・家光に剣術を教えていた。 実戦でどのようにあるべきかという兵法本来の思想だけでなく、兵法は如何にあるべきかという社会的な面からの思想も述べられているのが特徴である。, 将軍家指南役にして、柳生新陰流(江戸柳生)の当主であった宗矩には多数の弟子がいた。それらの弟子達には、大名家へ指南役として仕えた者や、後に一流の流祖となった者も多かった。また、将軍家である秀忠、家光をはじめ、当主自ら入門している家も存在した。, 武芸者/為政者の両方に於いて高名を為したため、宗矩の逸話には、史実上のものと、真偽が不明なものがそれぞれ多数存在する。, 宗矩の逸話のうち、真偽が不明なものの中には、他流派の伝承が出典となっているものも存在する。これらの逸話の中には、史実と相反するものが多く、注意が必要である。, 史実においては、将軍家兵法指南役(公的な場における武芸の最高権威)にして、当時最大の剣術流派の宗家という立場、使番や惣目付などを歴任し大名にまでなった将軍側近としての立場、個人としての家光や沢庵その他諸大名との交流、十兵衛三厳などの子供達との関係や尾張柳生家との不仲など、同時期の他の武芸者と比較し様々な側面を持つことから、その人物像は作家/作品によって大きく異なる。, 山岡荘八は大河ドラマ『春の坂道』のために原作(『柳生宗矩』)を書き下ろしている。山岡は他の小説『徳川家康』、『伊達政宗』、『徳川家光』にも宗矩を登場させ、これらの作品内において宗矩は、一貫して情誼に篤い剣聖であり、家光のよき師として描かれている。また、吉川英治の『宮本武蔵』においても、実直な理性家として描かれている。, 一方で五味康祐・荒山徹・宮本昌孝・朝松健らの小説や、映画・ドラマ『柳生一族の陰謀』、大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』などにおいては、幕府安泰のために陰謀や暗殺を遂行する闇の世界の人物として描かれている。また、その中でも、秀忠を悪役とする作品では、宗矩もその配下の悪役として描かれがちである(小説では隆慶一郎の諸作や漫画『あずみ』、ゲーム『新 鬼武者 DAWN OF DREAMS』など)。また惣目付に就任していた影響などから、「裏柳生」と呼ばれる密命を帯び謀反の芽を摘み取ったり、柳生一族の邪魔になるような者を排除を目的とする忍者や武術、暗殺集団の頭領とされることもある。, 同様に剣豪小説的な視点(津本陽、戸部新十郎の諸作。また漫画『陸奥圓明流外伝 修羅の刻』など)から描かれた場合、同時代の剣豪(宮本武蔵など)や同じ柳生一族(父・石舟斎、息子・十兵衛、甥・兵庫助利厳)と比較し、隔絶した地位を得た事から、剣ではなく、政治面で立身した「剣士として純粋ではない人物」[注釈 41]いう捉え方をされ、この場合、比較的評価を下げた描かれ方をされる傾向がある。, また柳生一族や将軍家剣術指南役の確執の主軸として描かれる場合もあり、天下の剣術指南役の江戸柳生と、「一国一人の印可」を継承した柳生利厳の尾張柳生といった史実から江戸柳生と尾張柳生の対立の軸としてとりあげられる事や、同じ将軍家剣術指南役の小野派一刀流との確執などが描かれる。また逆に江戸、尾張のまとめ役となり一族共闘の下、互いにそれぞれの役割を担い、任に当たる展開になることもある。, ただし、柳生家が失領した時期については諸説あり、小田原征伐より後の文禄3年(1594年)に行われた太閤検地の際に、隠し田が露見した事によるものとする説もある, 寛永13年2月25日 小河九右衛門宛の沢庵書簡における宗矩について「上方よりの知音にて候。紫野(, この事から「心法の江戸柳生」と称されることもある(対比として「刀法の尾張柳生」がある)。, 『兵法家伝書』において、宗矩はこれを「平常心」と称し、目指すべき理想の心理状態としている。, 荒木又右衛門の新陰流入門の誓紙は仇討ち後の寛永12年10月24日のものであり、宛先も戸波又兵衛になっている。, なお、この逸話は新渡戸稲造の『武士道』において、武士と禅の関係についての話として引用されている。, 実際にはこの頃には家政は既に亡くなっており、大和高取2万5000石に封じられたのは息子の, 武蔵が将軍家指南役に誘われた際、柳生の下になることを嫌って自ら断り、宗矩の側も特に武蔵を推挙しなかった、という話が享保12年(1727年)に書かれた『丹治峯均筆記』にある。, また別の説では家光の御前試合に参上するところが、家光の死によって沙汰止みとなったとされているが、その場合でも、既に宗矩は死去している。また、家光が死ぬ前の慰みとして、俗に「慶安御前試合」と称される兵法上覧が慶安4年(1651年)に開かれているが、ここの出場者の名に重明の名はない。, 一刀流内部の逸話で宗矩(及び柳生家)が引き合いに出されることが高いのは、同じ将軍家剣術指南役という地位にいるにも関わらず、家格・名声において圧倒的に差がつけられ、「天下一柳生流、天下二の一刀流」(「日本剣道史」)などと称されたことが影響していると言われている。, 『正傳新陰流』では新次郎厳勝にも所領を分けて継がせたとあるが、石高的に計算が合わなくなる上、その場合、厳勝も直参として名が残る筈であるが、そのような記述はない。また、その嫡男である利厳が, 永禄8年4月に上泉信綱より石舟斎に与えられた印可状。文中に「一流一通りの位、心持を一つ残さず伝授している、その事が偽りなく真実であることを神仏にかけて誓う、九箇まで伝授する事を許可する、上方には数百人の弟子はいるがこのような印可を与えるものは一国に一人である」とする旨が記載されており、信綱が石舟斎を唯一の正統と認め、他の門弟にも教えていない技法を伝授した証とされる。, 尾張柳生家にしか伝えられていないと考えられていた目録は全て、宗矩の長男三厳が著書『月の抄』の中であげた二百三十二項目中に含まれている, 『本朝武芸小伝』では宗矩を宗厳の「嗣子」とし、利厳は宗厳の子(宗矩の弟)としている。, 『撃剣叢談』では宗厳を開祖とする「柳生流」の跡を「二代目但馬守宗矩」としており、利厳についての記述はない。, それらの作品では“剣を権に変えた”“政を以って剣を歪めた”などと揶揄されることが多い。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=柳生宗矩&oldid=77182336, 剣士としては、江戸初期の代表的剣士の一人として知られる。将軍家兵法指南役として、当時の武芸者の中で最高の地位に位置し、「古今無双の達人, 一剣士としてだけに留まらず、「活人剣」「大なる兵法」「無刀」「剣禅一致」などの概念を包括した新しい兵法思想を確立し、後世の, 父親としては、子息4人のうち、長男・三厳(十兵衛)はその不行状から家光の不興を買い謹慎、三男・宗冬は成人まで剣の修行を厭うなど、子の教育について沢庵より忠告を受けている。「政治家・宗矩」と「剣士・十兵衛」の不仲・対立を描いた創作物がある一方で、三厳は著書で「祖父・石舟斎は流祖・信綱より新陰流を受け継ぎ信綱にまさり、父・宗矩は祖父の後を継いで祖父にまさる」としてその出藍の誉れをたたえている, 「一人の悪に依りて万人苦しむ事あり。しかるに、一人の悪をころして万人をいかす。是等誠に、人をころす刀は、人を生かすつるぎなるべきにや」, 「刀二つにてつかふ兵法は、負くるも一人、勝つも一人のみ也。是はいとちいさき兵法也。勝負ともに、其得失僅か也。一人勝ちて天下かち、一人負けて天下まく、是大なる兵法也」, 「無刀とて、必ずしも人の刀をとらずしてかなはぬと云ふ儀にあらず。又刀を取りて見せて、是を名誉にせんにてもなし。わが刀なき時、人にきられじとの無刀也」, 「人をころす刀、却而人をいかすつるぎ也とは、夫れ乱れたる世には、故なき者多く死する也。乱れたる世を治める為に、殺人刀を用ゐて、巳に治まる時は、殺人刀即ち活人剣ならずや」, 「小才は縁に逢って縁に気づかず、中才は縁に逢って縁を活かさず、大才は袖触れ合う他生の縁もこれを活かす」, 元和8年(1622年)、新陰流を全て相伝してほしいと家光に強く要求されたため、伝書二巻を与えたが、伝書の末尾に「技法はこれで全てですが印可は別物です」という旨を記して、家光を諌めたという。(『玉成集』『新陰流兵法円太刀目録外物』), 寛永15年(1638年)、家光に兵法の事でかなり強い意見をした後、臍を曲げて1ヶ月ほど自宅に引き篭もったことがある。その際、沢庵が話を聞いたところ、「自分はなんとも思っておらず、全ては上様次第である。やましいことなど何もない、まっすぐなものだ」と答え、大笑いしたという。結局、その後、家光が宗矩の機嫌を取ったことで再び仲の良い状態に戻ったという, 寛永19年(1642年)、宗矩が湯治に出ていた間、沢庵和尚が家光の御前に出る度に、宗矩の話が出ないことはなく、ある時は「宗矩から和尚に手紙はないか」と十度も尋ねたという, 亡くなる前、見舞いに来た家光が「何か望みはないか」と尋ねた時、「息子達(三厳、宗冬)をどのようにされるかは御心次第で構いません。ただ、柳生庄に寺を建て、父宗厳を弔うため、末子六丸(義仙)を住職にさせて頂きたくお願い致します」と答え、自分の死後、所領1万2,500石と家財全てを将軍家に返上した。これを受けて家光は宗矩の遺志通りに差配し、所領と家財を三厳・宗冬・列堂に分配している, 宗矩の死後、家光は「天下統御の道は宗矩に学びたり」と常々語ったという(『徳川実紀』)。, 家光は宗矩の死後何かあると「宗矩生きて世に在らば、此の事をば尋ね問ふべきものを」と言ったという(『藩翰譜』)。, 家光に「何故自分の剣の腕が上がらないのか」と問われた際、「これ以上は剣術だけではなく、禅による心の鍛錬が必要です」。と答え、その禅の師として配流中の沢庵を推挙し、後に家光が沢庵に帰依するきっかけを作った(『, 東海寺造営の際、家光に頼まれて宗矩が沢庵を説得したことで、沢庵は東海寺住持となる事を決めたという, 島原の乱の鎮圧後、抜け駆けを咎められた鍋島家のために家光へ赦免嘆願を取り成し、減刑に成功したという(『元茂公御年譜』)。, 寛永4年(1627年)11月、宗矩は胃潰瘍で倒れており、寛永6年(1629年)2月頃になって、ようやく快復したという(宗矩から細川忠利宛の手紙)。この時、宗矩のために、伊達政宗が老中・, 沢庵より挨拶の良い大名を取り成ししているという噂があるので注意せよと忠告を受けている, かなりの喫煙者であり、沢庵より「かく(胸の病)」になるので煙草を吸うのはやめるよう忠告を受けている, 家光が宗矩の不意をついて一撃を加えようとした時、これに気づき、「上様の御稽古である。皆、見るでない」と大喝し、家光の悪戯を防いだという, 家光が宗矩が平伏しているところに「但馬、参る」と一撃を加えようとした時、敷物を引っ張って防いだという, 家光に「檻に入って中の虎を撫でよ」と命じられた際、扇子のみを携えて檻に入り、気迫で虎の動きを封じて撫で、無事に檻を出たという(『東海和尚紀年禄』), 家光が辻斬りをしていると聞き、変装して先回りし、斬りかかってきた家光の剣を無刀取りで止め、これを諌めたという, 喫煙を沢庵に咎められた際、「では煙を遠ざければよろしかろう」と言い、部屋の外まで出る特製の長いキセルを作って煙草を吸い、「これで煙を遠ざけ申した」と答えたという, 愛宕山の石段を馬で登ろうとして失敗したが、沢庵に啓示を受け、以来、石段であっても平地の如くに馬を操れるようになったという(『沢庵珍話集』), 嫡子・三厳(十兵衛)が隻眼になったのは、宗矩が月影の太刀伝授中に誤って傷つけたためとも(『正伝新陰流』)、鍛錬の為、飛ばした礫が誤って目に当たったためとも(『柳荒美談』)いわれている。ただし三厳のものと伝わる肖像画のは両目が描かれており、自著を含む三厳生前の記録にも隻眼であったことを示すものはない。, 『柳生藩旧記』に、次男・友矩が家光の寵愛を受けて自分を超えて出世するのが気に入らなかったという記述がある。また家光から友矩を大名に取り立てるという話が出た際にはこれを固辞し、ほどなく友矩が職を辞して柳生庄に戻り、病死した際、その遺品から「3万石(または4万石)を与える」という家光から友矩へのお墨付きを発見し、ひそかに家光に返上したという, 三男・宗冬と仕合した際、「太刀が長ければ勝てるのに」などと言った不覚悟を咎め、戒めのため、気絶するほどの一撃を与えたことがあるという, 柳生庄に戻った際、洗濯をしている娘に「その桶の中の波はいくつある」と戯れに尋ねたところ、「ではその馬の蹄の跡はいくつありますか?」と即答したため、これを気に入り、側室として迎えたという。この娘が後に列堂義仙の母となったお藤とされる。なお、このことを歌った俗謡に「仕事せえでも器量さえよけりゃ、おふじ但馬の嫁になる」というものがある(柳生観光協会『柳生の里』)。, 宗矩が江戸城で敷居を枕にして寝ていた際、若い武士達がこれを驚かそうと障子を閉めたが、宗矩があらかじめ敷居の溝に扇を置いていたので、障子は閉まらなかったという, 『葉隠』内の逸話に、常住死身の境地に達した者を一目で見抜き、即日印可を授けたというものがある(『, 飼っていた猿が見よう見まねで剣を使えるようになり、ある時、これを牢人と立ち合わせたという話がある, また、武蔵を宗矩の師匠とし、無刀取りを試そうとした宗矩を「師にむかひて、表裏別心ありや」と叱り付け、謝らせたという話がある, また、同じく『三祖伝記』には、宗矩から忠明の剣を見たいと頼まれて柳生家に出向いたところ、宗矩本人が仕合せず、息子の十兵衛や高弟達が出てきたので、これをまとめて相手にしたという逸話がある。なお、この後、十兵衛が木刀を置き、「忠明殿の剣は水月の如し。到底拙者では敵い申さぬ」と平伏し、村田与三と共に忠明に入門したという顛末になっているが、十兵衛本人の著作や関連する書状に、忠明との関係を伺わせる記述はない。, 同じく一刀流の逸話の中には、忠明が宗矩に対し、「剣の修行のためには人を斬らせるのが一番である。罪人を貰い受け、ご子息に斬らせてはいかがであろうか」と述べたところ、宗矩は「いかにも、いかにも」と答えたものの、実際にはそのようなことをしなかったというものがある(「日本剣道史」), 同じく尾張柳生家では、石舟斎が自らの正統と認め自身の技法をあますことなく伝えたのは、新陰流正統の証である「一国一人の印可」, 『外の物の事』- 家光に与えられた伝書。「外の物」とは太刀以外の物の意であり、槍、長太刀、小脇差、馬術等の術に加え、日常での心がけなども記されている。, ウィリアム・S・ウィルソン訳『英文版 兵法家伝書 - The Life‐giving Sword』(, 赤羽根龍夫「新陰流を哲学する:江戸柳生の心法と刀法」(基礎科学論集 : 教養課程紀要), 加藤純一「柳生宗矩『兵法家伝書』における心:「具放心心」を巡って」(日本体育学会大会号), 加藤純一「兵法家伝書』伝本の比較研究:細川家本と小城鍋島家本」(目白大学人文学研究), 前林清和、渡辺一郎「剣道修行過程における心的変容についての一考察:主として『兵法家伝書』よりみたる」(体育科学系紀要). この記事では、柳生宗矩はどんな人物だったのか、わかりやすく簡単にまとめてみました。, 宗矩23歳のとき、父・石舟斎が徳川家康に招かれ、家康本人を相手に柳生新陰流の秘術「無刀取り」を見せました。, 無刀取りというのはその名の通り自らは刀を持たず、刀を持った相手を制するというもの。, 後世「真剣白刃取り」のような曲芸だと誤解されることもありますが、そうではなく、剣を極めた達人が、その理合や体捌きを用いてのみなしうる奥義です。, その家康が無刀取りを自ら体験し、その場で石舟斎に弟子入りしたというのだから本当にすごい技だったのでしょう。, 1600年、関ヶ原の合戦を前に上杉景勝を討つために会津に進軍した家康に従うものの、石田三成の挙兵が知らされ、宗矩は地元の柳生の庄に戻って父とともに後方攪乱を行います。, 1615年、大阪夏の陣に秀忠に従って参軍した宗矩は、秀忠に迫った武者7人を斬り倒しました。, 家光の信任篤かった宗矩は、幕府惣目付に任じられ、最終的には1万2500石の大名にまで出世。, 柳生宗矩は、一対一の手合わせではなく、戦場という実戦の場で複数の敵を斬ったと記録にも残る本物の達人です。, 達人だと賞される剣術家でも、戦場で実際にその剣術の冴えを見せたと記録される人はそう多くはありません。, そんな流れの中で、宗矩は人を斬り殺す「殺人剣」から「活人剣」への転換をはかります。, 「一人の悪をころして万人をいかす。是等誠に人をころす刀は人をいかすつるぎなるべきにや」, 「乱れたる世を治めむ為に殺人刀を用いゐて、已に治まる時は殺人刀即ち活人剣ならずや」, 刀で人を斬るのは世の中のため、そして世が平穏に治まったなら剣術は殺人ではなく人を活かすために用いるべきであるということです。, その役目は、諸国大名のみならず、公家、朝廷にまでにらみを効かせ、幕府への叛逆の動きがないかを監視することでした。, 柳生宗矩は、水野守信、秋山正重、井上政重らとともに初代の幕府惣目付に任じられました。, 4人の惣目付の中でも宗矩は細川忠興が「(宗矩の上司である)老中たちもおそれている」と書き残すほどでした。, 柳生新陰流は将軍御家流となったおかげで諸国大名にも石舟斎や宗矩の門下生を派遣しており、それが情報ネットワークとなったのが宗矩の強みであったようです。, 柳生宗矩は、剣に生き、幕府への反逆者を取り締まったという人生から、ただ真面目な堅物だったり、幕府のためなら手段を選ばない冷酷な人物だったりというイメージを持たれています。, 宗矩は、若い頃から沢庵と交流があり、沢庵はまた宗矩に剣に例えた仏教の教えを解説した手紙なども出しています。, しかし実際には沢庵と武蔵の交流の形跡はなく、実際に沢庵と深く交流していたのは宗矩でした。, 宗矩の『兵法家伝書』には、沢庵から学んだ禅の思想が全編に渡って綴られており、「剣禅一如」の思想は宗矩と沢庵の交流により生まれたことがわかります。, 次に沢庵が宗矩に合うと、なんと宗矩は長いキセルでタバコを吸っており、タバコを遠ざけたとうそぶいたなどという話もあるようです……。, 日本の伝統芸能「能」は、元は猿楽と呼ばれ、現在ではお硬いイメージがあるけれど、戦国時代から江戸時代ぐらいにかけては特に武士たちにとっての娯楽として楽しまれていました。, そして、知り合いの大名の屋敷に呼ばれもしないのに押しかけ、能を披露するというエピソードも残されています。, でも、その実像は剣と禅を愛し、徳川家光からは父のように慕われる懐の深い人物でした。, 父が創始し、宗矩が広めた柳生新陰流は現代まで伝えられるとともに、現代の剣道の成立にも大きな影響を及ぼしています。, また、芸能人の柳生博さん、そのご子息で癌により早逝された園芸家の柳生真吾さんも柳生家の子孫です。, 次回のコメントで使用するためブラウザーに自分の名前、メールアドレス、サイトを保存する。, これは禅の思想の影響を受けたもので、これにより剣術という殺人術が武道に昇華されたと言ってもいいでしょう。, それが後の世のフィクションで陰謀を巡らせるフィクサーのような扱いにされる原因ともなったのでしょう。, 宗矩がただの堅物ではないユーモアがある人物であったとともに、沢庵とはそんな冗談も言える気のおけない仲だったこともうかがわれます。, https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/rekisi_header.jpg. また手加減下手を自認しており、敵以外では滅多なことでは本気を出さない。本気を出すと冗談では済まない事態になるからだ。 天草四郎 指南役として、彼に剣と禅、政道の有り様を導いた。 巴御前、望月千代女 そんなわけでプライベートでは「余の柳但は最強なんだ! 島左近 坂崎直盛 小野忠明 今回の「奈良ぶらぶらハイキング」は、剣豪・柳生一族の里へ。柳生家は宗厳(石舟斎=せきしゅうさい)とその息子・宗矩(むねのり)に代表される剣術家の家系で、剣術・柳生新陰流を確立した宗矩は2代将軍秀忠のもとで大坂の陣を戦い、3代将軍家光の兵法指南役を務めました。 結局、直盛は自害。幕府に謀反をしたとし、坂崎家は滅亡

と言って、宗矩を茫然とさせ、諦めさせて帰したと言う。 生涯の最後まで己の剣と向き合い続けたその魂は、「零に至った武蔵」でさえまともに立ち会えば勝てないと評せるほどの極地に至っており、「剣聖」に近い域に達しているとも言われる。, 柳生三厳 荊軻

「弱冠にして天資甚だ梟雄、早く新陰の術に達し、其の書を術作したまう」(「玉栄拾遺」) 新陰流免許皆伝者(宗矩は柳生新陰流とは名乗っていない)・幕府兵法(「ひょうほう」と読む。つまり剣術のこと)指南役の柳生宗矩の長男。 幼名は七郎で三厳は諱にあたり、よく知られた十兵衛の呼び名は通称である。 はっきりとした経歴はわからず、後世の脚色が多い。ただ、その中で文献に残っていることは、 13歳で徳川家光の小姓となり、寵遇を得たのだが、20歳の時に家光の勘気を蒙り(理由は不明)蟄居を命 …