尊氏・義詮は新たに後光厳天皇を立てたが、今回は偽の神器すらない中での即位となった。さすがにこれでは権威もないと、足利氏三代目の義満が南朝と和平交渉をし、明徳3(1392)年、南朝第4代の後亀山天皇から、北朝第6代の後小松天皇に譲位される形で、神器も北朝に渡されることになった。

■3.南朝の全国ネットワーク  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ かかる尊貴の御刀が出てきたからにはさぞかし由緒ある神社に相違ない」と激賞され、「菊御作」「正真」との鑑定をいただいた。  足利直義はさすがに驚き、土岐を死刑にした。これを聞いた武士たちは大いに恐れ入って、「上皇に出会ってさえ馬から下りなければならないのであれば、両御所(尊氏、直義)に出会ったときは地面に這いつくばらねばいけないのだろうか」とささやき合ったという。[6,p175] Copyright © CyberAgent, Inc. All Rights Reserved. 一般社団法人 楠公研究会 代表理事.

■5.「七生報国」の楠木・新田一族  その志を継承して、南朝方の武将たちが何代にもわたって戦い続けた史実も忘れがたい。

『神皇正統記』は彼の学識と情熱とをかたむけて執筆した国史であるとともに、歴史評論であり、その随所に、きびしい道義のことばがほとばしっている。親房につき従う城兵も、戦闘のあいまにこれを写しては読み、正統記の文章にはげまされて勇気を振いおこしては戦つたと伝えられている。[3,p249]

Koorigaoka,Hirakata-City,OSAKA-Pref,JAPAN, 世界に誇る皇統2680有余年の皇国日本。  上皇よりも尊氏などの方が偉いと思っている無知ぶりである。『神皇正統記』を戦いの合間に写しては読んだ南朝の武士たちとの違いは著しい。  南朝と言うと、いかにも吉野の山奥に潜んで、ゲリラ的抵抗を続けていたかのように思えるが、実際にはそうではなかった。そもそも吉野は修験道の本拠地として、多くの寺社を擁し、それぞれが数百、数千の衆徒を抱える富強の地であった。, 東は伊勢の地で勤王の志厚く、さらに海路で陸奥につながる。そこには北畠親房(ちかふさ)・顯家(あきいえ)親子が後醍醐天皇の第七皇子・義良(のりなが)親王(次代・後村上天皇)を奉じて関東を窺っていた。 「七生報国 (7度生まれ変わって朝敵を滅ぼしたい)」 でした。 これがきっかけで、楠木正成は戦死を覚悟で大義の為に戦い「忠臣をつくす」代名詞になるのです。(江戸時代の中期ごろから) ↓皇居外苑にある楠木正成の銅像 皇国日本の英雄・忠君愛国・七生報国の大楠公楠木正成公の真実をお伝えします。

代わりに、社務所に菊一文字関連資料を常設展示しております。, 管理者  延元4(1339)年に後醍醐天皇がお隠れになると次代の後村上天皇のために、親房は常陸の小田城(茨城県つくば市)の陣中で筆をとり、我が国の国柄を歴史を通じて説いた『神皇正統記』を書き上げた。歴史学者・村尾次郎博士はこう評している。  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 『物語日本史』の著者・平泉澄博士は、南朝の活躍した吉野時代57年間と、その後、足利幕府支配の182年間を比較して、次のように述べている。  皇室の愛民精神にも学ばず、道義のかけらもない私利私欲だけの権力者のもとで国が治まるはずもない。室町幕府が権力も権威も失い、戦乱の世が続いたのも当然であった。

 一方、自由社版中学歴史教科書も、多少は詳しいが、大同小異の記述である。 松帆神社の社宝、名刀「菊一文字」は、承元時代(1207~1211年・鎌倉時代初期)作の古刀である。, 時の後鳥羽上皇は全国より名刀工を召し出され御番鍛冶とし、共に親しく鍛刀遊ばされたが、その折の筆頭御番鍛冶であった備前福岡一文字派の祖である則宗の作と見られる。, 刀姿には云うべからざる尊厳の気品を蔵し、その淬刀(やきは)は杢目肌(もくめはだ)に大模様の肌交わる丁子乱(ちょうじみだれ)で、あたかも朝日に匂う山桜のような荘厳華麗な刃文を有する点、世界に冠たる日本刀の神髄を発揮している。, 古来、「八幡宮(松帆神社旧社名)には名刀あり」との口伝・噂はあったものの何処にあるどんなものかは判然としなかったが、昭和8年に偶然松帆神社本殿奥の内陣より発見された。 __________ Copyright©2016-2020.LEARNJAPAN ALL RIGHTS RESERVED. (文責:伊勢雅臣)

「挫折した建武中興の理想は、明治維新という形で復活した」  吉野時代は、苦しい時であり、悲しい時でありました。しかしその苦しみ、その悲しみの中に、精神の美しい輝きがありました。日本国の道義は、その苦難のうちに発揮せられ、やがて後代の感激を呼び起こすのでありました。これに反して室町の182年は、紛乱の連続であり、その紛乱は私利私欲より発したものであって、理想もなければ、道義も忘れ去られていたのでした。[5,p245]  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ __________

千早城; 下赤坂城; 小根田城(上赤坂城の一部)  室町幕府は初代・尊氏以降、15代将軍・義昭が織田信長によって京都から追放された元亀4(1573)年まで240年ほども続くが、最初の約60年は南北朝の争いが続き、両朝合一後も各地で乱が絶えることなく、応仁元(1467)年に始まった応仁の乱以降は、全国各地で有力守護大名が戦い合う戦国時代が100年ほども続く。

以降の楠木一族も、元中7(1390)年、永享元(1429)年、同9(1438)年、文安4(1447)年、寛正元(1460)年に足利氏に反逆して討死にした記録が遺っている。1460年と言えば、正成の討死の124年後である。まさに「七生報国」を一族として実践したのである。

 尊皇心、道義心に満ちた南朝方に対して、足利方の皇室軽視と謀略ぶりは鮮やかな対照をなしている。この違いのよって来る所を示す格好のエピソードがある。

 南朝方が一つの志で全国的に結ばれ、かつ何代にもわたって戦い続けたのに対し、足利方は内紛、謀略、裏切りの連続であった。 ■6.足利一族の内紛、謀略、裏切り  尊氏は高兄弟の側について、直義と戦ったが大敗。高兄弟は負傷し降伏したが、殺されてしまった。尊氏と直義は表面上は和解したが、翌年、不和が生じ、直義が京都から逃れ去ったので、尊氏は追討の兵を上げることとした。  九州から押し寄せた足利軍に対して、延元元(1336)年5月25日、湊川(現・兵庫県)の戦いに敗れた後、楠木正成・正季兄弟は「七生報国(七たび人間に生まれ変わって国に報いる)」を誓って差し違えた。

また、当時の文部省国宝保存課刀剣主査 本間順治博士からも「間違いなく菊一文字で、鞘(さや)・柄(つか)・鍔(つば)の拵(こしらえ)も刀身に劣らぬ世に珍しいもので、両々相まって重要美術品に認定する」との評価をいただき、昭和10年5月20日付で国の重要美術品に認定された。, 当時、突然の発見であった事もありその由来には様々な説が出たが、  尊氏は南朝の承認を得た上で、鎌倉にのぼり、直義を成敗すると、翌正平7(1352)年、南朝方を裏切って、攻撃をしかけた。諸国の南軍が急ぎ上京して加勢しようとしたが、間に合わなかった。 ■7.足利武士たちの無知と私利私欲 七百有余年を経て、なを且つ生(うぶ)に等しい刀姿は余程手持ちが良かったこともあろうが、宝刀の宝刀たる所以でもある。  尊氏の重臣・高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟は専横を極め、尊氏の弟・直義(ただよし)と対立した。直義は正平5(1350)年、南朝に帰順し、その権威と武力を背景に、高兄弟の打倒を図った。

 以降の楠木一族も、元中7(1390)年、永享元(1429)年、同9(1438)年、文安4(1447)年、寛正元(1460)年に足利氏に反逆して討死にした記録が遺っている。1460年と言えば、正成の討死の124年後である。まさに「七生報国」を一族として実践したのである。 週間メール入門講座「教育再生」http://bit.ly/118DokM  西の河内は楠木一族の本拠地であり、そこから南朝方の熊野や伊予の水軍が支配する瀬戸内海を経て、九州の菊池・阿蘇ら勤王軍につながる。後醍醐天皇は懐良(かねよし)親王を征西将軍宮として派遣され、この親王のもとで九州では南朝方が優勢だった。

 南北朝史を専門とする村田正志博士は、この書が世の中にどう受けとめられたかを、次のように述べている。

 この際、尊氏・義詮(よしあきら)親子は直義を真似て、南朝に降参して、その権威を利用しようとした。南朝方は容易には許さなかったが、尊氏は重ねて奏上し、後村上天皇の親政を願い、京都へのご帰還を請うたので、これを許した。

■リンク■  南朝の人々は、後醍醐天皇が率先し、親房が『神皇正統記』で描いた理想によって結ばれていた。  正行はこの言葉通りに、吉野の西の守りを固め、正平3(1348)年、23歳の時に、押し寄せた足利の大軍を四條畷の戦いで破るが、自らも重傷を負い、弟・正時とともに自決する。  尊氏は京都に新たに天皇を立て、後醍醐天皇が吉野(奈良県)にのがれたので、二つの朝廷が生まれました。京都方を北朝、吉野方を南朝と呼び、この南北朝は全国の武士によびかけて戦いました。南北朝の動乱のつづいた約60年を南北朝時代といいます。[1,p70]

 5月27日、後醍醐天皇は叡山に逃れたが、8月15日、京都に入った足利尊氏は持明院統の光厳(こうごん)上皇の弟宮を立てて光明天皇とした。後醍醐天皇が在位されているのに、別の天皇を立てたのが二朝並立の始まりである。  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 加えて、南朝には「天皇を国家統合の中心とし、その愛民の精神を文武の官が体して政治を行う」という後醍醐天皇の理想[a]に共鳴して戦い続けた人々が多かった。その一人が北畠親房(ちかふさ)である。  建武3(1336)年、足利尊氏の軍を兵庫・湊川で迎え撃とうとする正成は討死を決意し、11歳の息子・正行(まさつら)を郷里に帰るよう命じて、次のような遺戒を与えた。

__________ __________ a.

JOG(927) 歴史教科書読み比べ(24) 建武の中興 閉ざされたクラスルーム/密室の中の独裁者/学力崩壊が階級社会を招く/国語の地下水脈/人格を磨けば学力は伸びる/子供を伸ばす家庭教育/江戸日本はボランティア教育大国/国作りは人作り

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ■8.「精神の美しい輝き」と「私利私欲の紛乱」と 正成すでに討死すと聞きなば、天下は必ず将軍(尊氏)の代に成りぬと心得べし、然(しか)りといへども、一旦(いったん)の身命を助からんために、多年の忠烈を失ひて、降人(こうじん、降伏)に出づる事あるべからず。[5,p210]  息子・顯家が戦死した後も、50歳に近い年齢にも関わらず、各地で南朝の勢力拡大、足利方との戦闘に奔走した。吉野を中核に、皇子を各地に派遣して、全国に南朝方のネットワークを創るという雄大な戦略も、親房が編み出したものと言われている。

南北朝の争乱 1336(建武3)年、足利尊氏は京都に新しい天皇を立て、建武式目を定めた。これは、京都に幕府を開き、鎌倉時代初期の北条泰時らの政治を手本とする、幕府政治再興の方針を明らかにしたものだった。一方、後醍醐天皇は吉野(奈良県)にのがれ、ここに2つの朝廷が並び立つ状態が生まれた。両者は別々の年号を使った。  足利方の土岐寄遠(とき・よりとお)という武士は、北朝初代天皇であった光厳上皇の行列に出会っても、馬を下りようとしなかった。上皇の先駆けの者が「光厳院がお通りになるのか分からないのか」と叱りつけると、土岐は「院だろうが犬だろうが、そんなこと知るものか、犬ならば射てみよう」と言って、院の輿(こし)に矢を射込ませた。 __________ 松帆神社の社宝、名刀「菊一文字」は、承元時代(1207~1211年・鎌倉時代初期)作の古刀である。 時の後鳥羽上皇は全国より名刀工を召し出され御番鍛冶とし、共に親しく鍛刀遊ばされたが、その折の筆頭御番鍛冶であった備前福岡一文字派の祖である則宗の作と見られる。  これでは南北朝が互いの権力争いのために、全国を約60年間も戦乱に陥れた、という理解で終わってしまう。  直義のみならず、尊氏親子まで降伏してきたので、正平6(1351)年、南朝方は北朝を廃止し、偽物とされていた神器も回収した。ここに一度は南北朝の並立という異常事態は解消したのである。各地の南朝軍も振るい立ち、京都も奪回した。  南朝方と足利方の対照的な生き方を見ると、結局、足利方の武士たちは何ら学問をしていないために、人として信義の大切さも、皇室の伝統的な愛民精神も学ばずに、私利私欲のためだけに内紛、謀略、裏切りに明け暮れていたように思われる。 http://blog.jog-net.jp/201602/article_4.html, 後醍醐天皇を中心とする「建武の新政」がわずか2年余りで崩れた後、南北朝時代を迎える。この後、約60年間、二つの朝廷が並び立つという空前絶後の異常事態が続くのだが、東京書籍版の中学歴史教科書の記述はわずか4行である。 その際に鑑定にあたられた鑑刀宗家 本阿弥光遜(ほんあみこうそん)氏は「在銘にしてかかる優れた出来栄えのものにはここ数年接した事がない。 ■2.尊氏の策略から始まった南北朝 (1)菊一文字の非常な希少性(有力大名・大財閥でなければ入手不可能と言われた) (2)吉川弥六の末裔吉川家に、「菊一文字は落人間で廻し持ちして隠し、その後領主を通じて八幡宮に奉納した」との口伝がある事の主に2点より、菊一文字は建武中興の恩賞として賜ったであろう大楠公遺愛の太刀として伝えるところとなった。, 管理に細心の注意を必要とする貴重な名刀という事情もあり、松帆神社では10月第1週日曜日の例祭の日に限り宝物殿を開放し菊一文字の一般公開を行っている。

 何のために南朝は吉野の山奥で約60年間も抵抗を続けたのか、そして勝利した足利幕府がなぜ権威を失って戦国時代に突入するのか、ここには我が国の国柄を理解する上で重大なポイントが潜んでいる。

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 後を継いだ三男・正儀(まさのり)も、一時は北朝との和平を訴えて南朝内の立場を失い、やむなく北朝側に立った時期もあったが、その後は南朝側に復帰して戦い続けた。  すなわち本書は南朝正統の歴史的理論的根拠を明らかにした書であり、著作された当時、南朝の人々はもとより一般人にも名著として歓迎され、その後室町時代にも重んぜられ、更に近世になってから後は、その学問的、また思想的価値が大いに認められるようになったのである。[4,p129]

 後醍醐天皇は、こうした事態も予期されていた様子で、偽物と言われる神器を渡された上で、秘かに12月21日夜、吉野(現・奈良県南部)に逃れ出た。こうして南朝が始まったのである。  しかし、三種の神器は後醍醐天皇の許にあり、神器なくして擁立された光明天皇には正統性はない。そこで尊氏はなんとか神器を得ようと、一計を図って後醍醐天皇に京都へのお帰りを請うた。そして京都に戻られた後醍醐天皇を幽閉して、神器を光明天皇に渡すように強要した。  新田の一族も、義貞の子ら、そして弟の義助とその子らがみな志を同じくして南朝側に立ち、ほとんど戦死を遂げている。その子孫も、応永16(1409)年頃まで何度か足利氏に反逆して討死にした記録が残っている。 ※例祭当日以外の菊一文字観覧はできませんのでご注意下さい。 楠木七城(くすのきしちじょう)は、後醍醐天皇の呼び掛けに応じた楠木正成が鎌倉幕府への抵抗の拠点とするために築城した城砦群である。 現在の大阪府 南河内郡 千早赤阪村・富田林市・河内長野市にかけて城跡が残る。. (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー, ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー, 足利尊氏は、裏切り者扱いされていますが、(最初は鎌倉幕府の北条氏を裏切り、そのあとは後醍醐天皇を裏切るので)、彼の立場になってみれば「なるほどね。。そりゃあ、そうなるわ」と思う記述もあります。, 「北条孝時の遺児時高が鎌倉を攻撃した時に、尊氏は勝手に攻めに行って時高を討った後に、そのまま鎌倉に居座って朝廷に反旗を翻した」, 「尊氏が鎌倉に出て行ったのは、尊氏のかわいがっていた弟が鎌倉を守っていたときに時高が攻め入ったので、尊氏は後醍醐天皇に、自分が征夷大将軍になって鎌倉にいって戦いたいと申し出たのにもかかわらず、後醍醐天皇に許されなかったので、許しを得ないままそのまま鎌倉に行って、鎌倉を取り返して居座り、武士たちに勝手に恩賞を与えたのが後醍醐天皇のお怒りを買った」, 私は歴史家ではないのでどちらの説があっているのかわかりませんが、人の目線によって勇者になったり、悪者になったりするということは知っておいた方がいいですね。, ただ、、後醍醐天皇が、しっかりと武士の身分や土地も保証して、新しい改革をやっていれば、尊氏も後醍醐天皇には向かおうとしなかったでしょうし、なによりも多くの武士が尊氏についていかなかったでしょう。楠木正成は、そういったことがわかっていて足利尊氏が九州に逃げた時点で、後醍醐天皇に「和睦するべき」と奏上しています。, さて、足利尊氏は九州に逃げた後、このままでは朝廷には向かう「逆賊になってしまう」とおもい、, ここで、⇧のビデオを見ていただいた方はわかると思いますが、湊川の戦いで圧倒的な量の兵で戦いを挑む尊氏軍にくらべ、正成はたった700の兵で戦い最後は弟と刺し違えて全滅しました。, これがきっかけで、楠木正成は戦死を覚悟で大義の為に戦い「忠臣をつくす」代名詞になるのです。(江戸時代の中期ごろから), 後醍醐天皇は、(はっきり言ってずうずうしく)、吉野(奈良県)に逃げて、皇居、朝廷を作ったのです。これが、南朝になるのです。, ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー, ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー, 私が、後醍醐天皇のことをよく思えないのは、このブログの最後の絵の変なかんむりかぶってぬけぬけとしているから、、というのもあるけど、なんといったって、人を使って戦いを起こしておいて、人に戦わせて(しかも、その人物(楠木正成)の命がけの奏上もきかず。。)そのあとに、戦いが負けたら懺悔して出家すればいいのに、のうのうと「逃げて」, いすわっているのが、嫌なんですわ。改革起こすとか、天皇親政とか言っておきながら、「勇気があって素敵」と思えないのですよね。男らしいようで、男らしくないでしょ。, ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー, ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー, 「今は対立してしまったが、後醍醐天皇なくして室町幕府もなかった。後醍醐天皇は大恩人だ」, といい、後醍醐天皇が崩御されたときには、慰霊のために天龍寺を作ったそうです。尊氏は、南朝を滅ぼすことは考えなかったのです。, もしかしたら、わたしが知らない後醍醐天皇の魅力というものがあったのかもしれません。 , 私が小学校時代かな?なんだか、今の天皇は本当の天皇ではないだの、もう一つ天皇の家系があるだの、UFOの話題のように取り上げられたことがあり、???と思っていましたが、これでやっと訳が分かりました。, 明治政府が、南朝を正当と定めたので、今は南朝を正しい系統としているそうです。(だから楠木正成の銅像が立っているのですね。), だって、南朝も、北朝もさかのぼれば、後嵯峨天皇からで、優柔不断の後嵯峨天皇が、後深草天皇を無理やり譲位させて、後深草天皇の弟の恒仁親王を亀山天皇と即位させてしまったのが始まりなんです。, となると、正当な後継者って、実は北朝の後深草天皇の系統じゃないのかな??だから、今の天皇陛下の家系が正当な家系でいいのではないかと思います。, こう考えると、あのUFOの話題のように大ニュースになった皇室の系統のお話が、しゅーーーーん。と線香花火のように消えていったわけもわかります。, 学校では、(私が忘れただけかもしれませんが、)南北朝の話はあまりしなかったような気がするし、ましてや楠木正成の話も聞いた覚えがないので、こういったことは日本人の教養として覚えておいた方が絶対にいいです。, 英語が話せて外国人に皇居を案内する時も、楠木正成の銅像を見て、「あれはなに?だれ?」と聞かれたときに答えられないのも世にいう国際人として失格ですしね。 (うっぷす。。私も失格です。英語じゃ説明できないかも。。。), 私にとっては、理解不明だった南北朝時代と、子供のころの、「今の天皇陛下は偽の天皇陛下だ」噂話の謎もやっとわかった授業でした。楠木正成や足利尊氏についてもよく理解できたと思います。新田義貞についてはあまりよく調べませんでしたが、同じ天皇側について足利尊氏と戦ったのに、楠木正成だけが「忠臣」とされているのには、たぶんですが、新田義貞が皇室を大事にするために戦ったというよりも、ライバルの足利尊氏に勝って自分が実権を握りたい。。という心がちらりほらりと見え隠れしていたからかも知れません。, 実際、足利尊氏は、楠木正成の死は丁重に扱い、敬意を示していますが、新田義貞にはそういったことをしていません。まあ、それも、新田義貞側の話を読めばまたいろいろなよいエピソードがでてくるのでしょうね。, Learn Japan では、日本の歴史を日本の教科書に沿って学ぶ歴史教室を開いています。(7月、8月は歴史教室はお休みしますが、9月からまた再開します。), このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください。.