当サイトに掲載されている写真・画像、その他商品名・番組名などは、各社の商標・登録商標・著作物です。, 記載内容は可能な限り事実に基づき、公平になるよう配慮致しておりますが、史料自体の問題などもあり、中には誤認もあるかと存じます。 All Rights Reserved. 「吾は、五歳で母に別れ、十歳で父を失った。十一歳の時、兄の興元が京都に上ったので、みなし児になってしまった。 杉の大方殿はあまりの不憫の思ったのか、多治比に留まって見捨てられずに私を育ててくれた。そのため、若い身の上なのに再婚もしないで貞女を遂げられた。」, 1511年、杉大方は、京都に赴いていた毛利興元の許可を得て、松寿丸は元服すると、多治比(丹比)元就と名乗って分家を立てた。, 1516年、兄・毛利興元が父と同じアルコール中毒にて死去。そのため、多治比(丹比)元就は酒の席では「下戸」だと言い酒は飲まなかったとされる。 毛利元就は1497(明応6)年に毛利弘元の次男として生誕、1571(元亀2)年に没しました。享年75歳。 血液型はA型(毛利元就の細部にこだわる性格と、広島地方の血液型はA型人間が多いことから推定して)、B型という説もあります。 毛利弘元の次男として生誕した毛利元就が毛利家の家督を継ぐことになったのは幸運としか言いようがありません。 毛利家の長男興元は「お酒が原因」で亡くなっています。そして家督は興元の嫡男(元就からみると甥)である幸松丸が継ぐのですが、幸松丸もその後な … ※続きは【次のページへ】をclick!. (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2020 All Rights Reserved. →穂井田元清とは~桜尾城と洞雲寺の陶晴賢の首塚も しかし、必要な能力担当者が欠けてしまうと脆い面もあったようです。 同じ書面に書くことで、息子から見てません、状況変わったから守らないなんて言わせない魂胆があるのでしょう。. Copyright (c) 信長の野望・創造 戦国立志伝 攻略wiki. 戦国大名としては初陣も遅ければ、結婚も遅い方となる。, 1523年、毛利幸松丸がわずか9歳で死去すると、志道広良ら重臣の推挙により、27歳で家督を継ぎ、毛利元就と名乗ることになった。8月10日に吉田郡山城に入っている。

そのため、毛利元就は、大名として独立すべく、強引かつ拙速に権勢拡大を図って行くキッカケとなった。 この時の毛利家は、吉田荘を治める安芸国人領主の1人に過ぎず、主家である大内義興の勢力下であった。, 1500年、室町幕府と大内義興の勢力争いに巻き込まれると、父・毛利弘元は隠居し家督を嫡男・毛利興元に譲った。

をクリックお願いします。, 「今、厳島に来られたら困っちゃうな~、ワシどうしたらいいかなぁ~」(チラッチラッ), 万が一、毛利家下々の家臣たちまで「うちの大将(元就)、大丈夫か……」となったらマズイところですが、そうならなかったところに毛利家臣の元就への信頼の厚さが窺えますね。, 「父上が隠居するなら私も隠居します! 後は息子(※当時7歳・後の輝元)に任せた!!」, 主君の意を汲んだ彼は、陶晴賢へ「最近ウチの主人が冷たいんです。私に居場所をください……」と泣きつく手紙を送り、まんまと陶家へ裏切る手筈を整えます。, さて、このわざとらしい呟きと裏切りに見事に釣られた陶晴賢、意気揚々と厳島へやってきました。, 実は「いくらなんでもわざとらし過ぎますよ、元就が何か仕掛けてるに決まってますよやめましょうよ」と引き止めてくれた人もいたのですが、大内氏の実権を握ってホクホクしていた晴賢は聞き入れませんでした。, むろん陶晴賢も愚将なんかではありません。巨大な大内家でクーデターを成功させたぐらいです。, そこが厳島という極めて狭い漁場ということをすっかり忘れてしまったかのように、この状況でもし包囲されたら……なんてこと考えもしません。, 確かに毛利家だけの兵ではどう考えても数が足りませんが、敵を小さな島に押し込めた上で、出口となる海を包囲してしまえば袋のネズミの完成です。, 敵船の間を泳いで通り抜け、対岸までたどり着くなんて芸当はドーバー海峡横断より難しいでしょうからね。, そこに目をつけた元就は自分の家の水軍だけでなく、瀬戸内海の有力者・村上水軍に援軍を要請し、「包囲よろしく」と依頼したのです。, これで準備は万全、あとは神様の気分次第……。 もっとも、7以降も意味ありますよね。長女や4男以降の扱いを書いてますよね。60歳も超えていて 寿命が戦争でなくなる中で書いてるわけで、戦乱の中で何通も書き、回覧している悠長なことしている暇はない。  この人について知られていることというと、元就よりも早く亡くなったことや、なかなか卑屈な手紙・言動を残していることくらいでしょうか。, そのせいで「根暗」「暗愚」との印象も持たれがちですが、生涯を追いかけて行くと、実はそうでもなかったりします。, 戦国時代というとだいたい織田信長を中心に語られることが多いですが、信長は天文三年(1534年)生まれとされているので、隆元のほうが歳上になります。, 14歳のときには、当時、毛利家のボスだった大内家へ人質に出され、山口に三年間滞在。, そこでの待遇は決して悪くはなく、いわば今川義元と徳川家康のような感じだったようです。, 隆元が整った顔立ちをしていたので、大内家の当主・大内義隆には色んな意味で気に入られたとか。, 毛利家に戻って初陣を果たすと、天文十五年(1546年)に突然、元就から家督を譲られております。, これは、大内家での三年間で、隆元が義隆の影響を受けすぎて、すっかり文学好きになってしまったことも影響しているようです。, そのため、毛利家に戻ってからは、元就や家老の志道広良(しじひろよし)によって武将としての心得を叩きこまれています。, 【厳島の戦い】の際、悪天候で渋る元就に「今やらないでどうします!」(意訳)と活を入れたのも隆元だったとか。かっちょいい。, 話が前後しますが、26歳のときに大内家の重臣である内藤興盛の娘・尾崎局と結婚しています。, その後なんやかんやで大内家とのつながりが切れた後も、尾崎局をとても大切にしていたそうです。, どのくらいかというと「特に用事はないけど、吉田郡山城(当時の毛利家本拠)に戻る人がいたから、ついでに手紙を届けてもらうことにしたよ」なんて手紙を書いたこともあるほど。, どう見てもノロケです、ありがとうございました。

中国地方の雄、 毛利元就 (もうりもとなり) はそんなストレスを手紙を書く事によって解消していたのです。 関連記事:【センゴク】なんで西の覇者・毛利家は織田信長と敵対し続けたの? 1ページ目から読む場合は 例)帰蝶、織田信長, 本サイトはリンク報告不要です。 執筆して下さる方がもっといればよいのですが・・。(^-^), 935さま、ご指摘、誠にありがとうございます。 →厳島の戦い~戦国時代の三大奇襲戦と宮島の宮尾城と勝山城 →村上武吉~瀬戸内海の村上水軍を率いた日本最大の海賊 ※続きは【次のページへ】をclick!. Copyright ©  はじめての三国志 All rights reserved.

記事での月日に関しましては、できる限り、旧暦の日付にて記載させて頂いております。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 隆元は折衝(統率)・内政を担当していたので、目立ちにくい。 特に国人衆の統治法を得た事が、元就の調略・合戦勝利と勢力拡大を結び付ける力を毛利家に与えた様です。, 隆元が当主になって、井上党を粛清し、家中の統制を断行した事(戦国大名化に成功) 1本の矢は簡単に折れてしまうが、3本にまとまった矢は折れない。

父・毛利弘元と松寿丸は多治比猿掛城に移ったが、1506年に父がアルコール中毒にて死去。 →宍戸隆家 毛利家を大きく支えた重臣筆頭 普通に考えれば人心が離れてしまいますが、彼を裏切るような家臣もいませんでした。, 息子たちや家臣への心遣いやものの伝え方なども調べてみるとおもしろいかもしれませんね, しげさま、いつもコメありがとうございます。 まずは、信長が書いた次の手紙を見てください☆ これは、4月5日(天正3年(1575)と思われる)に信長が、毛利氏の一族である小早川隆景(こばやかわたかかげ。毛利元就の3男)に送った手紙で、現在は、文化庁が持っています。 「播州(ばんしゅう。 しかし、武田家同様に奉行制度を確立して集団指導体制を整えていたが「天下を競望することなかれ」と遺言したのは、織田信長など革新的な時代の変化を予測したともされ、毛利元就の洞察力と先見の明は計り知れないものがあるように感じる。 1507年、松寿丸の後見役であった家臣・井上元盛に、猿掛城・多治比300貫を横領され、城から追い出されてしまった。 隆元が死んで、“絶対的な毛利家の信用手形”が欠けて、色々問題が噴き出てきたようです。

さらに豊後の大友宗麟も豊前の制覇を目指しており、同年10月には北九州での主導権を巡る争いの中で、陽動作戦として元就自身によって滅ぼされた大内氏の一族である大内輝弘に兵を与えて山口への侵入を謀るなど、敵対勢力や残党の抵抗に悩まされることになる。毛利氏にとっては危機的な時期ではあったが、元春、隆景らの働きにより、大友氏と和睦しつつ尼子再興軍を雲伯から一掃することに成功した。だが、大友と和睦した事により、大内家の富の源泉となっていた博多の支配権を譲る結果になった[注釈 9]。, 永禄10年(1567年)、元就は輝元が15歳の時、二頭体制をやめ、隠居しようとした[27]。だが、元就は輝元から隠居しないように懇願されたため、その隠居を断念した[27]。, 1560年代の前半より、元就はたびたび体調を崩しており、永禄9年(1566年)2月には長期の出雲出陣の疲労からか大病を患ったが[28]、将軍・足利義輝が見舞いのために派遣した名医・曲直瀬道三が元就の治療に当たった[29][30]。元就の治療は「道三流」と称される道三門下の専門医によって行われ、道三門下の専門医と道三との往復書簡いわゆる「手日記」を通して処方が決定された[29][30]。その効果もあって翌月には全快し、永禄10年(1567年)1月には最後の息子である才菊丸(後の秀包)が誕生している。なお、毛利氏領国では、専門医・専従医不足に伴う医療基盤の軟弱さが、永禄9年に曲直瀬道三が下向して一挙に改められた[30]。, 永禄12年(1569年)4月、吉田郡山城において病にかかったが、永禄9年の時ほど重くはなかったため、やや快方に向かうのを待って長府に出陣。元就は立花城の戦いにおける毛利軍を督戦したが、これが元就の生涯で最後の出陣となった[28]。, 永禄13年(元亀元年、1570年)1月、尼子勝久への攻撃を行うために元就に代わって輝元が総大将となり、元春と隆景も出陣した。元就は吉田郡山城に残って、大友氏や浦上氏の来襲に備えたが、同年9月に重病にかかった[28]。元就重病の報を聞いた輝元は、元春を出雲に残して隆景と共に急遽帰国し、元就の看病にあたった[28]。同年9月22日には元就が輝元からの書状に比較的長めの返書を送っており、元就の病状がある程度回復したことが分かるが、用語の誤りや重複の跡が見られることから、全快には至っていないことが窺われる[31]。元就もそのことを自覚していたようで、この返書の追而書において「何共内心くたびれ候間、是非に及ばず候」と記しているが、自身の節制と輝元や侍臣らの熱心な看病によって更に体調を持ち直し、出雲に出陣している将兵に対しても指導と激励の書状を送れるようになった[31]。同年11月12日に月山富田城を守る五男・元秋が元就の近臣である南方就正に宛てた書状では、元就の体調が回復したことに安堵した旨が記されている[31]。, 元亀2年(1571年)3月16日には花見の会を催し、その席上で「友をえて 猶ぞうれしき 桜花 昨日にかはる けふの色香は」と詠み[31]、同日には病気平癒の祈願のために出雲国の日御碕神社に社領50貫を寄進している[32]。元就の病状が落ち着いたことで、隆景も看病の必要はないと判断して暫く本拠の沼田に帰り、4月中に再度吉田に訪れた。, 同年5月になると元就の病状が再び重くなったため、隆景は出雲出陣中の元春とも協議して、安国寺恵瓊を使者として京から医師を招聘することを決定し、5月13日に東福寺の塔頭・勝林庵にその斡旋を依頼した。将軍・足利義昭の命によって毛利氏と大友氏の和睦斡旋のために安芸国に訪れていた聖護院道増も元就のために病気快癒を祈願したが、元就の病状は次第に進行していった。元就は6月4日に、かつて自らの一身に代えて元就の身体堅固・寿命長久を祈った隆元の追善料として、隆元終焉の地である安芸国高田郡佐々部の内丸名7町2段半を常栄寺に寄進したが、6月13日に吉田郡山城で激しい腹痛を起こして危篤に陥り[注釈 10]、翌6月14日の巳の刻(午前10時頃)に死去[33]。死因は老衰とも食道癌とも言われる。享年75(満73歳)。, 家督そのものはすでに嫡孫の輝元が継承済であったが、その死により二頭体制が終了し、輝元は毛利両川体制を中心とした重臣の補佐を受けて親政を開始した。, 元就が死去すると、隆景は直ちに出雲出陣中の元春に書状を送って元就の死去を報じ、輝元の意志として元春が元就を弔うために帰国するかは出雲の情勢次第で判断するよう求めた[34]。元春は尼子勝久の勢力が増すことを防ぐためにやむなく帰国を断念し、元就の葬儀を含めた後事全般は輝元が隆景、宍戸隆家、熊谷信直、福原貞俊、口羽通良ら重臣と協議して執り行う事となった[34]。, 備前の浦上宗景らの侵攻を防ぐために備中に在陣し、元就重病の報を受けると吉田に帰還して元就の看病に当たっていた粟屋就方は元就の葬儀が終わるまでは備中に戻らない意志を示していたが、輝元と隆景は備中の情勢を鑑み、6月16日に粟屋就方が急ぎ備中に戻り変事に備えることが元就への追善であるとして、特別に葬儀に先立っての焼香を許可し、就方もこれを受け入れた[35]。, 元就の遺体は元就が死去した6月14日の夜に毛利氏の菩提所である大通院に移された[36]。当時の大通院の住持は浩雲周養だったが、輝元は備後国三原の妙法寺の住持・嘯岳鼎虎を吉田に招聘し、元就の葬儀の導師を務めることを依頼した[36]。また、特に元就と師壇関係の篤かった山口国清寺の住持・竺雲恵心を招いて元就の葬儀で偈を授けてくれるよう依頼するため、6月17日に粟屋元重を山口に派遣し、山口奉行の国司就信と共に竺雲恵心との交渉に当たらせた[36]。また、国司就信が生前の元就に目をかけられていたことから、山口を離れて葬儀に参列することを許可した[37]。, 元就の初七日である6月20日、元就の葬儀が大通院で執り行われ、嘯岳鼎虎が祭文を捧げて元就の菩提を弔い[38]、竺雲恵心が「四海九州知有人 人生七十五煙塵 分明浄智妙円相 突出虚空大日輪」という偈を授けた[39]。葬儀が終わると元就の遺体は吉田郡山城の西麓にある三日市において火葬され[39]、6月24日に輝元が大通院の境内に築いた墳墓に元就の遺骨が埋葬された[40]。その際に大庭賢兼は「法の水 手向果ても 黒衣 立はなれ憂き 墓の前かな」と詠じて追慕した[40]。また、大庭賢兼は6月27日の二七日、7月5日の三七日、7月12日の四七日、7月19日の五七日、7月26日の六七日の各法会で追慕の歌を詠じている[41]。, 7月28日、元就の追善のため、隆景は安芸国の仏通寺において僧衆300人が列席する盛大な仏事を執り行った[42]。8月3日には大通院で元就の七七日の法会が執り行われ、元就と親交があり安芸滞在中であった聖護院道澄が参列し、大庭賢兼と共に追善の歌を詠じた[43]。, その他にも各方面からの弔問があり、山口の法泉寺が隆景に弔問し、湯原春綱も隆景に弔問して香典100疋を送った[44]。織田信長も使僧を派遣して弔問し[44]、9月17日には柳沢元政を派遣して弔辞を述べさせた[44]。大和筒井城主・筒井順慶も家臣の清須美右衛門を輝元のもとに派遣し弔辞を述べ、香典100両を贈った[2]。東福寺の塔頭・勝林庵は法華経5巻を一軸に書写して元春へ贈っている[2]。, 元亀3年(1572年)、朝廷は元就の生前の忠功を追賞して従三位の位階と「惟徳惟馨」の諡を贈った[2]。また、元就の200周忌に当たる明和7年(1770年)に元就・輝元・秀就の霊を祀る神社が萩に創建されると、朝廷は元就の神霊に「仰徳大明神」の神号を贈り、文政12年(1829年)11月8日にはその神社に正一位の位階を授けた[2]。更に明治維新における長州藩の功績から、明治2年(1869年)2月3日に元就を祀る神社に「豊栄神社」の神号を贈り、明治41年(1908年)4月2日には元就に正一位の位階が追贈された[2]。, 元就が構築した政治体制は領内の国人領主や地方勢力との共生を念頭とした典型的な集団指導体制であり、同年代の他の戦国大名と類似する点が多い。また元就の統治には、三子教訓状や百万一心などの標語による家臣・領民の心理的な変革が含まれていた。この点は武田信玄などに通じるものがある。毛利氏の統治の特色として挙げられるのは地方領主の独立性の高さであり、大名(毛利氏当主)による独裁とは程遠い体制だったことである。その詳細は武田氏などと同様に複雑かつ煩雑で把握しにくいが、家中に奉行制度を確立して政務を効率化すると共に、毛利家当主のサポート体制を盤石なものとして政権の基盤構築に成功していたことは確かである。, だが、これは古来の血族支配や、国人・土豪といった守旧的勢力の存在を前提にした良くも悪くも保守的な体制でもあった。特に地方勢力の独立性を認めることは、軍事組織(戦国大名)としての一体性をやや欠き、脆さをも内包することになったからである。この結果、嫡孫・輝元の代には革新的かつ強権的な軍事体制を実現した織田氏との交戦により苦境に陥り、一部国人衆の離反を招いた。また両川(元春・隆景)や穂井田元清など有力な血族が死去した後の関ヶ原の戦いでは、家中が東軍派と西軍派に割れて一貫した行動が取れず、結局敗軍の烙印を押されてしまうという醜態を演じた。(これは元来優柔不断な性格だった輝元の不手際によるものであるが、そもそも有力な血族による直接的補佐を必要とした毛利氏の体制から言えば、やむを得ないことであったとも言える。), にもかかわらず毛利氏が大名として生存を果たせたのは、元就の政治理念と異常なまでの家名存続の意志が、その死後も家中に色濃く残っていたためである(吉川広家の機転など)。後述する毛利両川とそれを筆頭とした奉行らによる集団指導体制の構築、そして「天下を競望することなかれ」という言葉を残したのは、自らの死による体制の変質や時流の変化を見越した判断でもある。, 防長経略の年(1557年)に、元就は長男の毛利隆元に家督を譲って隠居した。しかし隆元が政権の移譲を拒絶したため、実権は元就がなおも握り、吉川元春と小早川隆景による毛利両川体制を確固たるものとしていったのである。隠居に際しての同年11月25日、14箇条の遺訓(いわゆる「三子教訓状」)を作成、家中の結束を呼びかけた。この遺訓が後に「三本の矢」(前述)の逸話の基となったとされている。, 続いて同年12月2日、元就以下12人の主だった安芸国人領主[注釈 14]が著名な「傘連判状」を結んでいる。これは上下関係を明らかにはせず、彼ら国人領主皆が対等の立場にある事を示している[注釈 15]。, だが、裏を返せば、当時の毛利氏は井上一族の粛清によってようやく自己の家臣団を完全に掌握したばかりの状態であって、未だに安芸の土豪連合の集団的盟主という立場から完全には脱却できず、実子が当主である吉川・小早川両氏といえども主従関係にはなかったのである。毛利氏がこうした土豪の集団的盟主という立場から脱却して、土豪連合的な要素の強かった安芸国人衆の再編成と毛利家の家臣への編入を通じて、名実ともに毛利氏による安芸統一が完成する事になるのは隆元が安芸国守護に任じられた永禄3年(1560年)頃とされている。, ただし、その後もこうした国人領主は毛利氏との主従関係を形成しつつも、限定的ながら一部においてその自立性が認められていくことになった。こうした直臣家臣団と従属土豪(国人領主)という二元的な主従関係は関ヶ原の合戦後の長州藩移封まで長く続き、その統率が破綻することなく続いたのは毛利氏当主とこれを支える両川の指導力によるところが大きかったのである[注釈 16]。, 毛利氏は小豪族ではあったが、朝廷との結びつきが強い大内氏と同盟関係にあったことから、元就が当主となる以前から既に中央との政治的な繋がりを持っていたようである。また吉田郡山城の戦いで勝利した顛末を記した「毛利元就郡山籠城日記」を幕府に提出し、管領・細川晴元らの歓心を得た[50]。大内氏の滅亡後、弘治3年(1557年)に即位した正親町天皇に即位料・御服費用として総額二千五十九貫四百文を進献し[51]、その即位式を実現させたことにより、以後の毛利氏は更に中央との繋がりを強くすることとなる。同時期の元就の陸奥守就任、隆元の安芸守護就任、元就・隆元父子揃っての相伴衆就任、孫の輝元が将軍・足利義輝から偏諱を拝領したことなどは、全てこれら中央政界に対する工作が背景にある。また、これら政治工作の資金源となったのが石見銀山である。, さらに、尼子氏や大友氏との戦いでは、幕府の仲裁を利用して有利に事を進めている。尼子氏との戦いでは石見銀山を巡って激戦を繰り広げるが、幕府による和平調停を利用して有利な形で和睦。尼子氏が石見銀山に手を出せない状況を作り出して、その支配権を得た(雲芸和議)[52]。また、大友氏との戦いでも幕府は毛利氏に和平を命じているが、これに対して元就は一時黙殺し、状況が有利になってからそれに応じるという機転を見せた[53][54]。, 毛利氏領国では、女性の資産が、その本人ばかりか嫡男にも相続されるなど、女性の財産所有権および相続権が一面的とはいえ、認められていた。武家女性の社会的地位に関する特殊性が見て取れる[55]。また、成人した庶子の男子よりも実子の女子に優先相続権がある場合もあった[56]。, 毛利元就(毛利氏)に仕えた主な家臣のうち、特に代表的な武将は毛利十八将と呼ばれている。, 一代で西日本最大の戦国大名となりその名を広く知られるようになったため、現代でも小説・ゲーム・アニメなどで取り上げられている[57]。, 「我々は五歳にて母に離れ候、十歳にて父に離れ候、十一歳の時にて兄〔興元〕京都へ上られ候。誠に了簡なく、みなしご〔孤児〕に罷り成り」, 元就は「能や芸や慰事、何もかも要らず。ただただ武略、計略、調略こそ肝要にて候」「謀多きは勝ち、少なきは負け候」と, これを元就の謀略であると伝える軍記もあるが、尼子氏が、統率力強化のために自発的に行ったものと考えられている。詳しくは, しかし、大友の立場からすれば、同じく毛利の侵攻に悩まされ危機的な状況に陥り、龍造寺氏や島津氏の勢力伸長を抑える事ができなかった。, 「当分五ヶ国十ヶ国御手に入れ候は、時の御仕合せにて候(我々が5ヶ国10ヶ国を手に入れられたのは時の運であり、これ以上望むべきではない)」と元就がこぼしていたことに触れている, 家臣の志道広良に宛てたとされる自筆書状では、内容の要点に関する部分が韻を踏むかのように記されており、視覚的にも効果的な記述とされる。, この「傘連判状」の解釈には異論も存在する。元就が時計の十二時の最も目立つ位置に署名していること、この申し合わせが毛利家に伝わっており、国衆が元就に提出したと見られること、恩賞は一般に主人が部下に与えるものだが、この中の平賀氏は「御恩賞は決して忘れはしません」と書かれた書状が残っている等の理由から、傘連判は多分に形式的なもので、実質的に国衆と家中の間に差はなかったとする意見もある, こうした二元的な主従関係の複雑さから、元就没後の織田氏との戦いでは軍がまとまらず、常に後手に回る醜態を晒した。また関ヶ原以前の毛利氏では, 毛利元就の自筆が題字として採用されたため、スタッフの一人として毛利元就自身がクレジットされている。, 『毛利家文書』第248号、大永3年(1523年)7月25日付、福原広俊外十四名連署状。, 郡山城観光パンフレット「国指定史跡毛利氏城跡 郡山城」(発行:安芸高田市未来創造事業 歴史・伝統文化を活用した地域活性化実行委員会) -, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=毛利元就&oldid=80310881.