長崎で隠れキリシタンとして250年もの長きに渡って信仰を守り通した奇跡は、世界中に知れ渡っていました。その奇跡を廃墟にしたことはその遺構がある限りキリスト教世界から白い目で見られることになりますから、アメリカにとって浦上天主堂が残ることは原爆ドームが残るのとは比較にならない重要な懸念事項だったのです。その工作の為田川市長はアメリカに招かれたわけです。 浦上天守堂の原爆被災, この廃墟は広島の原爆ドームとともに、原爆の威力と悲惨さを物語る歴史的原爆遺跡となるはずでした。平和祈念のシンボルとして永久保存しようとする被爆者と市民の声が高かったといいます。実際終戦直後に被害状況を調査に来た連合軍の調査隊はこの天守堂の瓦礫を前に声を失しなったといいます。しかもそこには黒焦げになった聖母像がうつろな目を空に向けていたのです。地中のセミの幼虫まで焼き尽くされたため、セミの鳴き声もない別の星にでも行ったように完璧な静かさの中に天主堂の姿があったのです。, 従軍カメラマンは、世界に核兵器の脅威を知らしめる最も効果的な光景だと証言しており、これは広島の原爆ドームとは比較にならない光景だったのです。しかしそれは同時にアメリカにとってダメージとなる光景でもありました。キリスト教の国が東洋一の天主堂を壊滅し信徒を殺戮した遺構はとてもショッキングなものでした。 家族の中で母と私は、爆心地から1500メートル地点で場所を異にして被爆し、私が最も重傷を負った。家族は、皆心身ともに傷を負ったものの幸運にも全員命拾いした。しかし現在は、長崎で同時に被爆した両親も姉も兄もこの世にはいない。, 一緒に遊んで被爆した友人の母親は、浦上川で洗濯中に被爆し、黒焦げの遺体が川で発見された。亡くなって10数年後に知った、年下の親友も3年後に帰らぬ人となった。友人の死を知った後、私は、8月9日11時2分に毎年黙祷を捧げている。被爆時、私は10歳だった。, 二度と起きてはならない原子爆弾の被害、米ソ両国の核開発はエスカレートし米ソの核競争は激化して、巨大な戦略兵器と言われる水素爆弾の実験へと進み、ビキニ環礁でのマグロ漁船「第五福竜丸」の被爆となった。, 私は、大学を卒業して、自衛隊の幹部候補生学校を受験し、化学職種を選んだ。長崎の被爆者がなぜ自衛隊にと高校、大学の友人に質問を受けた。, 被爆者だからこそ自衛隊に入隊し、被爆体験を糧に「対核防護」を我がライフワークとして取り組みたいと思った。, 被曝70年を間近にして、10歳の時の鮮烈な体験記録をここに残して置きたいというのが今夏の私の課題である。, 1 なぜ原爆が長崎に投下されたか その日、8月15日の聖母被昇天の祝日をまじかに控えて、許しの秘跡(告解)が行われていましたが、司祭含め天主堂にいた信徒は全員死亡、浦上天守堂も廃墟となりました。浦上の信徒の半数も亡くなったといいます。

ここは、爆心地から北東へ約500mの地点です。現在の天主堂は昭和34(1959)年に再建されました。, 旧天主堂は、明治28(1895)年に起工し、大正14(1925)年に完成するまで、30年の歳月をかけて建てられました。当時は赤レンガ造りの、東洋一といわれた大きな教会でした。, 原爆の日、一瞬のうちに爆風で崩壊、火災で屋根と床の可燃物は焼失しました。聖堂、司祭館などは堂壁の一部を残して敷地内にあった聖人像などの石像もほとんどが大破しました。双塔の鐘楼の片方は天主堂内部に倒れ、他方は近くの川へ転げ落ちました。, なお、遺壁の一部は原爆落下中心地に移設されています。また、長崎原爆資料館に被爆当時の南側入口の再現造型や被爆した像など(実物)が展示されています。, 現在も、天主堂の左側の植え込みには、熱線で黒く焦げたり、鼻や腕、指がもぎとられたり、頭部を欠いた石像があります。, 浦上天主堂の敷地内を流れる小川の土手に、旧天主堂双塔(レンガ造り)の、ドーム状鐘楼の一つが巨大な残骸をさらしています。, 川いっぱいにはまりこんで流れをふさいでいたので、信徒たちが取り除こうとしましたが、爆破するにしても、占領軍の許可がなければ火薬は使えません。地主と相談のうえ北側に川をつけかえて土手に半分埋もれた現在の姿になりました。, 平成28(2016)年10月3日、この浦上天主堂旧鐘楼を含む「長崎原爆遺跡」が国の史跡に指定されました。, 〒852-8117 長崎市平野町7番8号 TEL 095-844-1231 FAX 095-846-5170, 本サイトはスマートフォン・タブレット対応サイトです。ご登録は下のボタンをクリックして表示されるQRコードからどうぞ。. All Rights Reserved. その後慶安元年(1648年)に長崎寺町の延命寺の開基である龍宣により山王権現を本尊とする白巌山観音院円福寺(えんぷくじ)と号する新義真言宗の寺院となるとともに延命寺の末寺とされ(延命寺自体は京都仁和寺を本寺としていた)、承応元年(1652年)に鎮座地が墳墓に近いという理由で延命寺2代目住職の卒覚が現社地に遷座、以降江戸時代を通じて寺院としての歴史を歩む。 All rights reserved. 3 私の被爆体験と後世に残したい教訓 長崎原爆 浦上天主堂の取り壊し ザ・スクープスペシャルという番組を見た 鳥越俊太郎氏の番組である 長崎原爆で被爆した浦上教会の浦上天主堂は被爆マリア像などで有名である 私も修学旅行で長崎を訪れた際に買った絵はがきは、天主堂を背景にした被爆マリア像である この番組のその日の

2 広島と長崎の被爆はどのように違うのか 長崎山王神社では爆風に対し平行に立っていたため一の鳥居がほぼ原形のまま残りました。 一本柱鳥居 4 日本における対核防護の勧め, 私が住んでいた長崎市は、昭和20年当初からご多分に漏れず警戒警報や空襲警報を発令される日が多くなってきた。ラジオからは、当時から佐世保軍港上空に敵機B29来襲、大村海軍航空隊上空をB29が飛行中との放送が流れており、長崎は、佐世保市や大村市に比較して空襲の頻度は、少なかったと記憶している。, その長崎がどうして原子爆弾の投下を受け被害にあったのか、当時から疑問に思えた。出口輝夫編著『原爆の話』を参考にした原子爆弾投下に至る経緯は、次の通りである。, 広島に原爆を落とした後、テニアン島に帰還したB29爆撃機「エノラ・ゲイ」〔AFPBB News〕, まず1945年7月16日早朝、米国のニューメキシコ州アラモゴードにおいて、世界最初の核爆発実験が行われ成功した。高さ30メートルの櫓の上にプルトニウムを詰めた筐体を据え、スイッチを押して爆発させたもので飛行機からの投下ではなかった。, 連合国側は日本がポツダム宣言を受け入れないと見込んでいた節があり、宣言の前日の1945年7月25日に、原爆投下を急がないと日本に対する緊急性がなくなるため、米軍は投下命令をポツダム宣言の前日に下されていたとも言われている。, 当時私は、子供心に一億総玉砕、竹やりをもって応戦する覚悟が国民の総意ではなかったかと思う。, (1)1945年7月25日、アメリカ陸軍省参謀本部指令としてトーマス・T・ハンディ参謀総長代理からカール・スパーツ戦略空軍司令官宛に下された命令の要旨は、下記のようなものであった。, ア、1945年8月3日以降、最初の特殊爆弾をもって攻撃目標の1つに目視爆撃を行うこと。