(訳:泣かないでくれアルフレッド。 20歳で死ぬということは、 ありったけの勇気がいるんだからな。), 引用元: http://www.neverendingbooks.org/galois-last-letter, ガロアほどの才能が、 色恋沙汰の決闘で散るという結末は、 人の運命のままならなさを 思い知らされるかのようですね。, 続いての数学者は、 直感的方法で数々の エレガントな数式を生み出し、「インドの魔術師」と呼ばれたシュリニヴァーサ・ラマヌジャンです。, 貧しいバラモン階級の生まれである ラマヌジャンは、英国の数学者ハーディが その才能を見出し渡英するまで、 証明という概念すら知らず、 得られた定理に対しては、「寝ている間にナーマギリ女神が教えてくれた」 などの理由付けをしていました。, しかしその数学的センスは ケンブリッジ教授のハーディも 驚くほど非凡なものであり、上記のモジュラー関数の 考えに基づいた円周率の公式や ゼータの積構造の発見など、 多分野に渡って数々の 目覚ましい業績を打ち立てたのです。, また更に言えば、 1995年のアンドリュー・ワイルズによるフェルマーの最終定理の証明も ラマヌジャンによる 新しいゼータ関数の発見なくしては あり得なかったというから驚きです。, ラマヌジャンの天才性を 表すエピソードとして 特に有名なのがラマヌジャンのタクシー数の エピソードです。, 1918年2月ごろ、 ラマヌジャンは療養所に入っており、 見舞いに来たハーディは次のようなことを言った。, 「乗ってきたタクシーのナンバーは1729だった。 さして特徴のない数字だったよ」 これを聞いたラマヌジャンは、 すぐさま次のように言った。, 「そんなことはありません。 とても興味深い数字です。 それは2通りの2つの立方数の 和で表せる最小の数です」, 実は、1729は次のように表すことができる。 1729 = 123 + 13 = 103 + 93, すなわち、1729が 「A = B3 + C3 = D3 + E3」という形で 表すことのできる数 A のうち 最小のものであることを、 ラマヌジャンは 即座に指摘したのである。, そんな良い意味でマジキチな 天才ラマヌジャンでしたが、 惜しいことに わずか32歳の若さで亡くなっています。, 死因は、結核、ビタミン欠乏症、 肝炎など諸説あり定かではありませんが、 ラマヌジャンがヒンドゥー教徒で ベジタリアンであったこと、そして 第一次大戦時で食物が十分に 得られなかったことが 大きな要因となったようです。, かつてその才能を見出したハーディは、「ラマヌジャンを見出したことが 私の最大の業績だった」と 晩年語ったそうです。, クリストス・パパキリアコプロスは 幾何学的位相幾何学を専門とする ギリシア出身の数学者です。, アメリカに渡り、 パパの愛称で親しまれた パパキリアコプロスですが、 彼の人生は世紀の難問ポアンカレ予想によって 大きく狂わされていくのでした。(ポアンカレ予想の概要については グレゴリー・ペレルマンの項を参照), ポアンカレ予想に 取り組み始めたパパは、 徹底した秘密主義を貫き、 自分の生活の時間のほぼ全てを ポアンカレ予想の証明に 費やすようになります。, その全身全霊ぶりは プリンストン大学から 教授職の申し出があった際にも 研究に専念するためにと これを辞退してしまうほど。, 彼は渡米後25年間、 ホテルの同じ部屋で暮らし、 毎日機械のように規則正しい生活を送り、父の葬儀の時の一回を除いては一度も 祖国へ帰ることはなかったそうです。, パパのポアンカレ予想への 執着は並大抵のことではなく、ライバルのヴォルフガング・ハーケンが 自分より先にポアンカレ予想を 証明したと発表した時など、 パパは非常に取り乱し、 ハーケンの証明の欠陥が明らかになった後も、 精神に不調をきたすようになってしまいます。, その後も最期まで ポアンカレ予想の証明に 人生を捧げたパパでしたが、 ポアンカレ予想を解明することは叶わず パパは1976年、62歳の時に 癌で死去してしまいました。, 生涯独身であったパパは「ポアンカレ予想が解けたら結婚しよう」 という、死亡フラグギリシア時代の 恋人との約束をついに果たせず、 死後葬式も行われず、親しかった友人ですら 最後まで彼の正確な墓所を 知ることはなかったそうです。, パパキリアコプロスをモデルとして、 同じくギリシア出身の アポストロス ドキアディスによって 「ペトロス伯父と「ゴールドバッハの予想」 という小説が出版されています。, ラマヌジャンやチューリング、 ゲーデルなどパパと同時代の数学者も 豊富に登場し、なかなか 読ませる一冊に仕上がっていますよ。, 続いてご紹介するのは、 スキンヘッドと鋭い眼差が少し怖い、 ドイツ出身のユダヤ系数学者アレクサンドル・グロタンディークです。, その業績は、代数幾何学の近代化、 l-進コホモロジー、クリスタリンヌ・ コホモロジーの発見による ヴェイユ予想への貢献など、 20世紀の数学者の中でも 特に群を抜いたもので、 1966年には フィールズ賞も受賞しています。, またグロタンディークは フランスの若手数学者集団ブルバキの中心的メンバーであり、 さらに、グロタンディークの功績を称えて、 後に多くのフィールズ賞受賞者を輩出するIHÉS(フランス高等化学研究所)が 設立されました。, 一見して、数学者として 順調にキャリアを積み上げて いたかに見えたグロタンディーク。, しかし1970年 グロタンディークが42歳の時に、 それまでの人間関係やキャリアを 突如断ち切って、 世捨て人のような生活に 突入してしまいます。, グロタンディークは、 NSDAP(ナチ党)が勢力を増しつつある 1928年のベルリンで、 過激な左派運動に参加するアナキストである シャピロとハンナの夫婦の元に生を受けました。, このような出自と、 自身の戦争体験からかグロタンディークは年を経るにつれ、 過剰なまでに反戦運動と環境問題に のめり込んでいきました。(グロタンディークの研究所には、 父の肖像画が飾られていたそうです), そして1970年、自身が所属していたIHÉSに 軍からの資金援助があることを知った グロタンディークはこれに激怒。, IHÉSの創設者 Léon Motchaneとの激しい討論の末に、IHÉSを辞退してしまいます。, その後は自身を「好戦的行動主義者」と宣言し、 小さな機関で研究を続けたり、 Survivre et Vivreという グループの設立を行う等しましたが、 その急進的すぎる思想は 世間の理解を得ることができず、 次第にグロタンディークは 周囲から孤立していきます。, 1980年代に入ると グロタンディークは精神的に不安定になり、 ピレネー山脈の小さな村へ恋人と移住。, そして1991年、 当時の恋人の家の庭で 数千ページの原稿を焼き捨て、 以後消息を完全に絶ってしまいます。, その後しばらく 表舞台に姿を見せることはなく、 2010年には、教え子に依頼して 許諾のない自身の著作を ネット上から大量に削除。, 最期は2014年11月13日に フランス南西部サン・ギランスの 病院で息を引き取りました。, 数学者として、 誰もが羨むような栄誉を掴みながら、 自らの思想のために、それらを全て 投げ捨ててしまったグロタンディーク。, その生き方を否定することはできませんが、 もし彼が純粋に数学の研究を続けていれば どれだけの成果を残していたのかと考えると なんとも歯がゆい思いがしますね。, グロタンディークについて 有名なエピソードの一つにグロタンディーク素数があります。, これは、 素数の一般論に関する講義の最中に、 具体的な素数による解説を求められた グロタンディークが、 合成数である57を挙げてしまった 出来事に由来するジョークです。, グロタンディークが 具体的な対象よりも、 抽象的な一般論に関心があったことを 示す印象的なエピソードですね。(単なるミスかもしれませんが), グリゴリー・ペレルマンは ロシア出身の数学者。子供時代から ずば抜けた才能を発揮し、16歳の時にはソ連国内の 数学コンクールを勝ち抜いて、 最年少で国際数学オリンピックの 代表選手に選ばれています。, また、恐ろしいことに、ペレルマンは数学だけでなく 物理学の方面でも非常に優秀でした。 そしてこの物理の才能は、 後にポアンカレ予想解決の 大きな武器となります。, 時は移って1990年代。 ソ連の崩壊をきっかけとして、 ペレルマンはアメリカへ移住。 そこで3年を過ごした後に いよいよ世紀の難問 ポアンカレ予想への挑戦を開始します。, ポアンカレ予想の内容については あまりにハイレベルすぎて 正確な説明は叶いませんが、 ご参考までにwikipediaから 簡単な概要を引用しておきます, 宇宙の中の任意の一点から 長いロープを結んだロケットが 宇宙を一周して戻って来たとする。, ロケットがどんな軌道を描いた場合でも ロープの両端を引っ張って ロープを全て回収できるようであれば、 宇宙の形は概ね球体である (ドーナツ型のような穴のある形、ではない) と言えるのではないか、というのが (3次元)ポアンカレ予想の主張である, …雰囲気はつかめましたでしょうか?